わが国の政治を憂う:「信」を問うべき時、それは「今でしょ!」

自民党の各派閥によるパーティー収入の還流は今や、先だっての相次ぐ政務三役辞任を上回る衝撃となっています。筆者は日頃から政党よりも人物本位で政治家を評価している立場ですが、それを差し引いても今の自民党は弁護のしようがない。そんな救いのなさを感じます。

かといって、他の政党がクリーンである証左にはなりません。実際のところは自民に限らず、ヨハネ福音書の「罪のない者だけが石を投げよ」的な状態にあるのではないでしょうか。

筆者は尾崎行雄記念財団の研究員であると同時に、郷学研修所・安岡正篤記念館の評議員としてそれぞれの末席を汚しております。意外に思われるかも知れませんが、尾崎行雄は幼少期の頃に父親の上司でもあった安岡良亮(りょうすけ)から四書五経の手ほどきを受けていました。のちに終戦詔勅の刪修(さんしゅう)をおこなった安岡正篤師の曽祖父にあたる人物です。

正篤師自身はもともと堀田家の生まれで、幼いころから才覚めでたいことから安岡家には養子として迎えられた経緯があります。それゆえ直接の血筋ではありませんが、それでも尾崎行雄と安岡正篤、その学びのルーツは同じ源流に辿り着きます。そのような縁もあり、筆者自身も兼務の形で両団体に所属しています。

現在の永田町の惨状を見たら、果たして尾崎行雄はなんと言うだろうか。そして万策尽きたかにも見える岸田内閣に正篤師はどんなアドバイスをされるだろうかと思いを巡らせます。

「憲政の父」尾崎行雄は今をどう見るか

まず尾崎行雄ならば、後輩議員たちになんというだろうか。恐らくは衆参両院の総選挙による、議会全体の出直しを呼び掛けたことでしょう。

参議院は半数改選の任期こそあるかも知れませんが、この問題は自民党だけに限った話ではありません。衆議院として、参議院として、党派を問わず議会全体が国民から厳しい目を向けられていることを自覚いただきたい。そのためには、たとえば参議院も任期や半数改選の原則に囚われることなく、1位当選が6年、2位当選が3年という特例措置があって良いでしょう。衆議院はもちろん総選挙です。

こう書くと、日ごろ尾崎財団の活動に関心を寄せていただく国会議員の方々からも猛反発の声があがることでしょう。それでも繰り返しますが、この問題は自民党だけに限った話ではありません。わが国の政治全体が問われている。

もともと派閥パーティー収入の還流は、落選による失職への恐怖が根底にあると筆者はみています。けれど、それに打ち克つ覚悟と胆力を持ち合わせない政治家ならば、国民は必要としません。

国民には選挙による当落こそないものの、勤め先の倒産や廃業、解雇などに日々おびえています。それでも何とかして、必死に生きていかなければならない。もちろん食い詰めて犯罪に手を染めるのはもってのほかですが、政治家とて例外ではありません。そうした想像力をフルに働かせてほしいのです。

「天下の木鐸」安岡正篤師はどうか

安岡正篤師は岸田総理の出身派閥「宏池会」の名づけ親でもあり、かつては池田勇人や大平正芳など、歴代宰相の指南役と言われた人物です。それゆえ、宏池会の現状にも忸怩たる思いで見ていることでしょう。

筆者は毎朝、安岡正篤記念館のSNS(facebookやXアカウント@noushikyogaku)を運営しています。生前の正篤師に直接学んだ経験もなく、いわば門前の小僧にも満たない存在ではありますが、それでもこの数年間、毎朝のごとく師のメッセージに触れております。そうした経験から、恐らくはこう諭されるのではないか。今の状況に触れて思うことがあります。

それは「地位に恋々としないこと」です。政権与党の座は何も自民党と公明党の指定席ではありません。それゆえ、椅子にしがみついてはいけない。

もしもこの期に及んで与党の座にあり続けたい大義があるとしたら、政治の空白や停滞を生み出さないためというのは有るでしょう。それでも、やはり永続的な独占はまかりならない。何よりもそうした緊張感がないからこその現在地ではあるまいか。とりわけ領袖はじめ番頭クラスの方々には言葉だけではなく、行動として真摯な猛省を促したいのです。

それ以上に、私たちは何を政治に求めるか

政治家のせいばかりではありません。与党よりも野党よりも、むしろ一番の責は筆者も含めた有権者にこそあります。まじめに候補者を選ばないからこそ、現状があるのです。

もしも今の政治に不満があるとしたら、自分が一票を投じたところで何も変わらないと思うのは格好悪いことこの上ありません。何より投票にすら行かない人は、どんなに政治が腐敗したところでとやかくいう資格がないのです。

そこで筆者が思う、わが国の政治を取り戻す唯一の道ですが、恐らくは尾崎も安岡師も同じことを言うでしょう。「信を問う」、これに尽きます。

具体的には選挙を行なうことに他なりませんが、与党も、野党も、そして有権者も。それぞれの責を痛感しながら、より良い政治を求めるより無いでしょう。結果によっては与野党が逆転するかも知れません、政治に空白や停滞も生じることでしょう。

有権者も賢明な判断が出来ず、旧来の人気投票的な選挙結果になるかも知れません。投票率だって向上は見込めないかも知れない。そのツケは当然ながら国民が払うことになりますが、それでも敢えて「信を問う」。それだけの危機的な状況にあるのが、わが国の政治の現在地です。

もしも政治が信頼を回復しなければならないとしたら、それは来年か、それとも再来年か。

かつて流行した「今でしょ!」ではありませんが、可及的すみやかに衆参の総選挙で「これまで」の旧弊政治家と決別し、「これから」の屋台骨を選び直すこと。それに尽きると筆者は愚考します。