苦に耐え、人物として成長する

『出光佐三の日本人にかえれ』(拙著)第三章の「大きく行き詰まれば、大きく道が開ける」で私は出光さんの次の言、「不景気大いに結構、天下大乱いいじゃないか。人間は苦労しなければだめだ。苦労すればするほど立派になる。僕など努めて苦労してきたから、何が起こってもビクともしない。(中略)苦労に負けてはならない。ここがキーポイントである。苦労を征服して人間として立派になる。難路を歩いてこれを突破してきた人は、人間として最高の道を歩いてきた人である」を御紹介しました。

そして出光さんは続けられて次のように述べておられます――僕は人間というものは苦しいものと思っている。苦しみは死ななければなくならない。しかし、その苦労は無意味なものではない。苦労をすればするほど人間らしくなる。僧侶とか学者とか、現実的でない人は死ぬまで修養している。修養は今の人に言わせれば苦しみである。僕に言わせれば、その苦しみを楽しみとするのだ。しかし、僕もはじめは修養を非常に苦しみと思った。どうしてこんなに苦しむのかと思ったが、それを苦しみと思っていたのではしょうがないから、しまいに、それを楽しみに思うように変えただけの話である。

中国清朝末期の偉大な軍人・政治家で太平天国の乱を鎮圧した曾国藩も、「四耐四不(したいしふ)…冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、激せず、躁(さわ)がず、競わず、随(したが)わず、もって大事を成すべし」ということを言っています。要するに、どんな人であれ苦が無い状況にはなりません。例えば、ローマ帝国の歴史を読んでいても「皇帝になっても常々色々な苦があるんだなぁ」とつくづく思いますし、NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ていても天下人であれ様々な苦から逃れられないわけです。

結局のところ、耐えるということで次第に人物が大きくなって行き人物が出来てくるのだろうと思います。敢えて苦労を自ら求めるような艱難辛苦の道を進まれた結果として、出光さんも人物に成られたのでしょう。我々の思い出として残っていることは、どちらかと言うと苦労した時のものが多いです。苦労は振り返って見て、楽しいとか微笑ましいとか迄は行かなくても、苦を切り抜けたという安堵感、切り抜けられたという一種の自己満足、更にはその過程での自己成長による充足感、等々の気持ちが生まれてくると思います。

「自己の充実を覚えるのは、自分の最も得意としている事柄に対して、全我を没入して三昧の境にある時です。そしてそれは、必ずしも得意のことではなくても、一事に没入すれば、そこにおのずから一種の充実した三昧境を味わうことができるものです」と、明治の知の巨人・森信三先生は言われています。三昧に至るとは、道楽であれ仕事であれ、非常に大事な境地だと思います。

之を『論語』で言えば、「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず…ただ知っているだけの人はそれを好む人に及ばず、ただ好むだけの人はそれを楽しんでいる人に及ばない」(雍也第六の二十)ということです。何事につけ、単に「知る」ところから出発し「好む」段階を経て、漸く「楽しむ」境界(きょうがい)に入って行けるものです。出光さんのように修養という「苦しみ」を「楽しみに思うように変えただけの話」と言えるようになる為には、修養というものを深く知り、好きになるまで耐え続けなければならないのだろうと思います。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年12月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。