学術が政治に翻弄される時・・・

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自民党のパー券裏金問題で世間が大騒ぎになっている間にひっそりと、12月13日に国立大学法人法の改正案が成立した。

改正法では、一部の大規模な国立大に「運営方針会議」という名の合議体の設置を義務づける。会議は、学長と外部の有識者も想定する3人以上の委員で構成され、中期目標や予算の決定などを行う。学長選考に関して意見を述べることもできるなど、強い権限を持つ。委員の選任にあたっては、文部科学相が承認する・・となっている。

運営方針会議の審議事項が教育・研究に及ばないようにすること、その他、16項目の付帯決議も可決されたが、付帯決議には法的拘束力がない。当面、対象大学は旧帝大のうちの5法人(東北大、東大、京大、阪大、名大)だが、いずれは旧帝大で残る北大、九大や、東工大と東京医科歯科大の統合大なども対象になると私は思う。

この改正案が何を目論んでいるかは、上記からほぼ明らかだろう。要するに、日本の学術研究の中心部を、思い通りにコントロールすると言う意味なのだ。何しろ、強い権限を持つ合議体の委員に選ばれるのは、文科大臣に承認された人だけなのだから。

以前「大学ファンド」をめぐってを書いた際に、ガバナンス(組織統治)の強化が強調されていることに対する危惧を述べたが、この改正案はまさにその内容そのものだ。つまり、学外者らで作られる経営意思決定機関を設置し、全学を命令一下、何でも言うことを聞かせる体制を作るという意味である。

法的拘束力のない付帯決議など、お飾りのようなもので、ほとんど抑制力がない中で「ガバナンス」だけが強化される。その時に「学問の自由」がどのように保障されるのか、この法案の説明からは何も見えてこない。

現在、国立大学法人法では、最高意思決定機関として「役員会」があり、これは学内者である学長と理事から成る。その他に、経営に関する重要事項の審議機関として「経営協議会」があり、学長や理事を含む学内委員と、主に政財界等からの学外委員からなる。つまり、現在でも学外からの声をくみ取る仕組みは一応整備されているわけだ。

今度の法改正で「運営方針会議」が設置されると、これら既存の機関との関係がどうなるかが問題である。しかし、文科省HPにある「法律案要綱」を見ても、これら既存機関と新規の「運営方針会議」の関係は明確に書かれていない。

文面には第5条に「運営方針事項の決定は、運営方針会議の決議によるものとすること」とあるので、これは既存の役員会より上位にあるらしい。すなわち「学長と3人以上の委員(人数の上限は書かれていないが)」で構成される会議で全ての最終決定がなされる。しかも、学長の選考にもこの会議は関与できる。完全なトップダウン体制である。

対象になった大学の現役教員で、この法案の成立を喜んでいる人は少ないはずだ。現に、大学教員を中心に、反対署名が4万筆以上も集まったとされている。無理もない。他の公務員と比べて給料が高いわけでもなく、多忙な仕事に追われる環境下で、大学教員を続けている大きな動機は、何と言っても「自由に研究できる」ことだからだ。それさえも制限されるとなると、大学教員であるメリットは大きく減る。つまり、職業としての大学教員の魅力は激減する。

今後、海外への頭脳流出や、大学教員志望の優秀な人材の減ることが、大いに憂慮される。特に、この法案の対象が日本の大学の中でトップレベルと目される大学に集中しているので、この憂慮は一層切実でもある。優秀な頭脳よ、どこへ行く・・?

なお補足だが、国家公務員の給与水準を比較した資料によれば、文科省の平均値は他の有力省庁(財務、経産等)より低い。大学法人教職員は国家公務員ではないが、事実上、それとほぼ同等の扱いになっている。つまり国立大学法人に勤める人たちの給与水準は、恵まれたものとは言えない。「他の公務員と比べて給料が高いわけでもなく」とは、そう言う意味である。

今、このような法律を制定するメリットは、どこにあるのだろうか?大学のガバナンスを強化することで、研究・教育力が上がると本気で思っているとすれば、それは大学の現場を知らない人の考え方である。私は既に定年後の身だから気楽だが、もし現役教員であったなら「これからは鬱陶しい状況になるなあ・・」と憂鬱な気分に襲われるだろう。自由に研究に没頭したいのに、上の方から「あれをやれ、これをやれ、余計なことは言うな」と指令が飛んでくるのかと思うと。

私には、これが地盤沈下を続ける日本の大学の底上げに繋がるとは、とても思えない。

今でさえ、既存の役員会と経営協議会の意見が食い違うことはあるし、またこれら上位機関の意見と現場の各学部教授会の意見が合わないこともよくある話である。だからと言って、それらを一挙に黙らせるために強権的な「運営方針会議」を置くのだとしたら、見かけ上は「効率化」するかも知れないが、結局は面従腹背の体制が定着するだけだろう。大学人だってバカじゃないから、やられっぱなしでいるはずがないし。

政治が学術に口を出す別の例としては、例の日本学術会議の問題がある。菅政権時代に新委員候補6名が任命拒否にあってから種々の議論が巻き起こり、いつの間にか任用問題が「組織形態のあり方」論に置き換わり、最近の決定ではどうやら国から独立した特殊法人に移行させる方針のようだ。つまり、これまで毎年10億円出していたお金はもう出さないから、自分たちで好きにおやりなさいと言う意味だ。もっとも、10億円のかなりの部分は関係する役人の人件費だから、学術会議の経費自体への影響はさほど大きくないかも知れないが。

私自身は、今の学術会議に大きな期待をしていないので、潰れようがどうなろうが大した影響はないのだが、学術に関連する組織が政府の圧力で変形させられる姿を見るのは辛い。

そもそも、学術会議が作られるきっかけは、戦争中に大学などが軍事研究に協力したことを反省して、平和に資する研究だけをやるのだと世の中に宣言するためだったはずだ。設立当初は、その文言が表看板にしっかりと書かれていたが、少なくともオモテからはいつの間にか消えた。時の政権から独立した立場で、学術の立場から助言すると言う姿勢も、次第に弱まっているように、私には見える。

例えば、地球温暖化問題にしても、純科学的に見たらおかしなことばかりなのに、政府の見解をそのまま受け入れて「カーボンニュートラル(ネットゼロ)に関する連絡会議」などを作ったりしている。本来ならば、ネットゼロを目指すことに本当に意味があるかどうか、学術的な観点からしっかり検討すべきであるのに。無論、そんなことを言う人間は、決してその種の会議には呼ばれない。

また、任用拒否された方々は、いずれも学術的業績には問題ないと誰もが認めているのに、政府に批判的な意見を述べていることが大きな障壁になっていることは、いくら政府が説明を拒否していても明白な事実だ。これでは、現役研究者は政府批判が言いにくくなる。

違う例では、京大医学部の宮沢孝幸准教授が来年春にクビになるらしい。新型コロナのウィルスやワクチンに関して、大勢とは異なる意見を述べ論文を出したからだろう。本人は辞めるつもりはなかったようなので、大学側から一方的に契約解除を言い渡されたと推測される。こんなことでは、大勢と異なる意見を言う人間は、少なくとも現役研究者からは出なくなる。何しろクビになるのだから。私の現役時代にも、異論を述べにくい空気はあったが、いきなりクビになるケースは見ていない。いよいよ、実力行使の時代に入ったということか・・?

これら一連の動き〜トップ大学の「ガバナンス強化」、学術会議を「黙らせる」ための圧力強化、異端的研究者の排除など〜を見ていると、はっきりした傾向が見えてくる。それは、異論を封じ、日本の学術を抵抗なく戦争協力=軍事研究に向かわせる体制を目指す動きである。

戦後わずか78年で、日本の学術も大きく変化した。一般の国民からは、大学などの学術研究機関は縁遠い存在に思われるかも知れないが、実際には学術の動向は世の中の生活に大きく影響するのである。だから、研究者でなくても、国民は全員でこの国の学術のあり方をしっかり監視する必要がある。「市民の科学」が、今ほど必要な時代はない。