【あとがき公開】人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?

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今回は拙書「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」から、あとがきを公開します。

発売からもうすぐ2年。「反ワク本」とレッテルを貼られがちな本書ですが、読み返してみるとワクチンのことなんて1割も書いてないんですよね。

「医療の本来の目的」とか「社会の中での最適解」とか「そもそも自分の人生をどうやって主体的に行きていくのか?」などの医療社会学的な内容が殆どで、我ながらとてもいいこと言っています。

一般の方々にももちろんですが、ぜひ多くの医師、特に若手に読んでほしいところなのですが、まあ、読まれないだろうな〜(^_^)

ということで、「あとがき」部分を公開したいと思います(今読むと、この頃はまだファイザーの95%有効!説が通っていたんですよね…。今は昔ですが)。

あとがき

冒頭、「いつの時代になっても読み続けられる本質的なテーマを多く扱いたい」と申し上げておいて何なのだが、最後に少し時事的な話題について述べさせていただきたい。

このあとがきを書いている令和4年1月21日、新型コロナワクチンの接種について厚生労働省は、5歳から11歳までの子どもも対象に加えることを正式に承認した。

TV番組では若いアナウンサーが

「子供が家庭で高齢者にうつして高齢者が死んでしまったら、それを一生背負わせるのは酷。だから子供にもワクチンを打てる選択肢が必要。」

と言っていた。

本当に子供にワクチンは必要なのだろうか?たしかにこうした「子供が家庭で高齢者にうつして高齢者が死んでしまったら…」という言説はある意味では真実かもしれない。しかし、歴史や社会全体を俯瞰してみると、それらが真実のうちの一部でしかないことがわかる。

そもそも、「感染症は感染者のせい」と考えてしまうこと自体が非常に危険な発想なのだ。それをやりだしたら社会が壊れてしまう。

インフルエンザは毎年1千万人が感染して1万人の超過死亡が出る。これまで、インフルエンザ死の1万人に対してたとえ1件でも感染源を「犯人」と責め立てたことがあっただろうか。肺炎球菌は子供の約半数が保菌していて、毎年数万人の高齢者が死亡する。これまで、数万人の肺炎球菌性肺炎死に対してたとえ1人の子供でも感染源として責めたてられたことがあっただろうか。

社会はそんな判断を一切してこなかった。そんなことをしたら人間の幸福と社会全体の健康から遠ざかってしまうからだ。毎年高齢者を中心に何万人も死んでいる諸々の感染症について、一つ一つに感染源・犯人を探すことが常となってしまうのなら、高齢者と子供は一年中全く接触できなくなってしまう。微小なリスクまでをゼロにしようとするのなら健康な大人同士の接触も出来なくなってしまう。人間社会は決してそんな判断をするべきではないのだ。

感染症は、個人のせいに…ましてや子供のせいにしてはいけない。

繰り返すが、インフルエンザは年間1万人、肺炎では年間10万人が死亡している。人の死を〇万人と数字で語ってしまうことはとても悲しいことだ。しかし、我々は意図しようがしまいが、これまでそれを許容して社会を営んできたのだ。交通事故の死亡は毎年3〜5千人にものぼる。自動車さえこの世になければ全員の命が救えたはずだ。全員が今でも元気に生きていたはずだ。しかし我々は決してその選択肢をとってこなかったし、国民全員が今も平気で自動車に乗っている。

いま、コロナ死が2年で1.8万人。しかもその殆どが高齢者。健康な若者の死亡例は実質ゼロだ。どうして社会全体が恐怖に包まれ、国民同士の接触を絶って、自殺を増やしてまで殻に閉じこもらなければいけないのだろう。我々は欧米の莫大な被害に、マスコミの過剰な報道に引きずられてしまっただけなのではないだろうか。

もし「新型コロナに対しては今のような感染対策が妥当だ」と言う人がいるのなら聞きたい。ではなぜ、新型コロナより莫大な被害を出していたこれまでのインフルエンザや肺炎に対し我々は同じ感染対策を取ってこなかったのか?と。なぜ専門家たちはそれをスルーしてきたのか?なぜその当時は医療崩壊しなかったのに今は医療崩壊するのか?なぜ医療は全病床の2・5%しかコロナに対応しないのか?なぜ国民はそれなのに行動制限しなければならないのか?

あまりにもダブルスタンダードなのである。

社会全体がこうした不都合で不合理な状況のなかで、いま我々は、

・リスクが殆どない子供を対象に、
・接種後の死亡が複数確認されていてその副作用の全容がわからない新しいワクチンを、
・健常児含め全員に無料で投与

しようとしているのだ。

私はとても同意できない。圧倒的にバランスが悪いとしか言いようがない。

これは、医学偏重世界、言い方を変えればエビデンス偏重の世界の弊害と言っていいだろう。

昨今、「エビデンス」という言葉がTVやニュースなどで一般的に使われるようになった。本書でもところどころに登場したが、世間一般でもこの「エビデンス」という言葉が頻繁に飛び交っているのが現状だ。確かにエビデンスは医学にとってとても重要なものであることは間違いない。しかし、エビデンスはその重要性ゆえに過剰に重視されていることも少なくない。

そもそもこの「エビデンス」という言葉は、医学界で用いられてきたEBM(エビデンス・ベイスド・メディスン)のことを言っている。巷では、「エビデンス」=医学的根拠、がなければ価値がないくらいに重用され、エビデンスを使って「論破」する、ような風潮まで生まれている。しかし、このエビデンスという言葉、本来はエビデンスに基づいたMedicine(メディスン=現場の診療)と言う意味であり、エビデンスだけを祀り上げたものではないのである。

EBMの正しい解釈を以下に記す。

「EBMで最も重要な位置づけは、情報収集・情報の批判的吟味にもまして、そのあとの段階、すなわち『その情報を患者に適用する』段階で、その際は『エビデンス・患者の病状と周囲を取り巻く環境・患者の意向と行動・医療者の臨床経験』の4つを考慮すべき」

(出典:http://spell.umin.jp/EBM.htm#EBMmisunderstandin 「step4:情報の患者への適用」)

たしかに、新型コロナワクチンの効果は95%あるのかもしれない。ただ、その内訳はワクチンを打たなかった人1000人中23人感染、ワクチン打った人1000人中3人感染ということである。つまり1000人中約980人の人は、ワクチンを打とうが打つまいが感染しなかったということなのである。しかも副作用は未知数。これをワクチン接種の現場でどう評価するか?市民側はこれを見てどう判断するか?

そうなのだ。エビデンスはエビデンスとして大事なものではあるのだが、そのエビデンスをどう解釈して現場で患者さんどう適用するか、市民がどう判断するか、この「現場への適用」こそがEBMの真意であり、そこで行われる非常に人間的な判断は、エビデンスとは全く別の次元のものなのである。エビデンス=絶対正義=論破、という図式は、実は医療の現場では全く成り立たないものなのだ。その意味で、医学やエビデンスを絶対と見て偏重しすぎる空気は、今の世の中に大きな弊害をもたらしていると言っていいだろう。

エビデンスは「正解」ではない。

正解のない世界でよりベターなものを各自が模索せよ、という非常に人間的な、根源的な問いを突きつけられているのだ。

冒頭の「子供が家庭で高齢者にうつして高齢者が死んでしまったら・・・」という発言に裏にもこのようなエビデンス偏重(ワクチン効果エビデンスを「正解」と捉えてしまうゆえの誤解)が見え隠れする。

だからこそ今、私達は医学・エビデンスに振り舞わされるのでなく、真に社会に求められている、現場の人々一人ひとりにあった人間的な判断を重視すべきなのである。それがエビデンスを社会の現場に落とし込む=EBMということなのである。

そんな中、少し嬉しいこともあった。先日TV番組の冒頭シーンでビートたけしさんの発言だ。

「単なる風邪だと思えばどうってことない。自殺者2万人(年間)のことを考えれば、重症者も死亡者もたいしたことない。俺みたいなジジイがくたばってるだけなんだから。そういうこという人がいないんだ。だから俺が言ってやる」

私と同じように思っている人たちが意外に多いのかもしれない…ビートたけしさんの発言を聞いてそう思った。

クルクルと変異していく変異株は、「弱毒化」の方向に向かうことが一般的である。つまり今後は、これまでと同じような重装備の感染対策が「最適解」である可能性は、これまでにもまして低くなるのだ。一方で過剰な感染対策が、かえって深く国民の「健康」を傷つけてしまうことは容易に想像できるのだ。

「感染はおさまったけど社会はぶっ壊れた」

ということになりかねない。ビートたけしさんはエビデンスだけが正解ではないことを、それを社会にどう落とし込んでゆくか、正解のない世界でみんながで悩み議論すること、これこそが重要であることを理解されているのだろう。

そう。だからこそ今、国民全員で、全力で、細かなデータやエビデンスの話だけではなく、人間的な人文科学・社会学的な話をするべきなのである。

エビデンスを右手に、人間の生活を左手に、本質的な議論を展開するべきなのだ。

感染対策はどこまでやればみんなが幸せに暮らせるのか?

社会全体の「最適解」とは何なのか?

今、これらのことを真剣に議論すべき時なのだ。

もちろんそこでは、

市民の覚悟が、
政治家の勇気が、
専門家の矜持が、いや
日本人の真価が試されることになる。

自分が所属している組織の理論や利害でなく、本気で国の将来を語り合える環境のなかで、エビデンスを右手に、人間の生活を左手に、国民全員で本質的な議論を展開するべきなのだ。

今私は切にそう願っている。

最後までつたない文章に付き合っていただきまして、誠にありがとうございました。またどこかでお会いできることを願っております。

冬の雨の音を聞きながら、ファミレスにて

森田 洋之