【経済学の観点】「少子化論」に対する「数理マルクス経済学」の限界②

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20239月に出版された大西広『「人口ゼロ」の資本論』(講談社)がベストセラーになっているようです。しかし同書には問題が散見され、とても学術的とはいえません。

そこで今回は、社会学者の金子勇氏と経済学者の濱田康行氏に、それぞれの立場で同書の何が問題なのか論じてもらいました。

【関連記事】【社会学の観点】「少子化論」に対する「数理マルクス経済学」の限界①

「資本主義の終焉論」

ここでは昨年9月に刊行された大西広『「人口ゼロ」の資本論-持続不可能になった資本主義』(講談社)を手掛かりにして、私は経済学の観点から「資本主義の終焉」のその先を考えてみたい注1)

著者によれば「資本主義の超克論」は3種類あるという(本書p.129 以下、本書からの引用は頁数のみにする)。

①水野和夫、②斎藤幸平、そして大西の本書である。

ただし、①と②はやや期待はずれだったので、大西本に注目してみたくなる注2)

著者の主張は、大胆かつ簡明である。それは「人口がゼロになれば日本は終る!」というもので、現代の日本資本主義はその方向に動いてきた。それはなぜか?資本主義は貧困問題を深刻化させるからだ。貧乏なら結婚もできないし、たとえ結婚したとしても子供を持てない。こういうことが日本全体の人口でみると、特に階層的には大きな割り合いを占める「所得が低い層」に生じている。

「本書では・・・『人口的持続可能性』という意味でも資本主義が終焉の時を迎えていると主張することになります」(p.131)。やはり「資本主義の終焉」なのだ。

大西流「マルクス経済学」とは何か

では、もう少し分け入ってみよう。なぜ貧困が生まれるのか。現代の状況は、仕事がない、仕事をしても賃金が安いからだが、資本主義はそれを止められない。人口持続可能性を追求すれば必然的に資本主義への批判者になり、著者は「マルクス経済学」者になったのである。

では「マルクス経済学」が著者にどう使われているか、そこから見ていこう。

ここでのテーマは人口であり、周知のようにマルクスも人口を重視していた(補論参照)。そして、それを経済学の議論の土台におくべきものとしていた。

「あるあたえられた国を経済学的に考察するときには、われわれは、その国の人口、その人口の諸階級への、都市、農村、海洋への、さまざまな生産部門への配分・・・からはじめる」(マルクス、1859=1951=1956:311、「経済学の方法」という節の冒頭)。

だから、大西本のタイトルでは“ゼロ”を除けばマルクスの表現を踏襲していると考えられる。“ゼロ”は著者がわざわざ太字にして強調しているのだが、マルクスは資本主義のもとで人口がゼロになるとまでは言っていない。

資本主義は労働者を働けるだけ働かせる。そうすると労働者は痛んでしまい、現世代も次世代も再生産もされなくなる。現在、働いている人が明日働けなくなるという問題と、労働者の次の世代が育たない(育てられない)という二重の意味がここにはある。

世界史から見ると

世界史を長い目でみると、国によって人口は減ったり増えたりしてきていて、様々の人口変化を示してきた。原始的な時代、封建時代、そして資本主義の各時代に合った独自の人口増減の原因がある。それを、マルクスをはじめとする経済学者は、やや漠然とした表現だが「人口法則」と呼んだ。

先に述べたように資本主義では労働者を収奪するから、やがて労働者は不足する。マルサスに依拠するまでもなく、人(ヒト)は簡単には増えない。労働者は資本家の持つ金(カネ)(資本)と並ぶ生産の主要要素だから、労働者という「人不足」は困ったことになり、資本主義の存続が危ぶまれるようになる。

資本主義には特有の人口法則がある

ここでマルクスは言う。資本主義には特有の人口法則があって、労働者の不足で資本主義がダメになることはないと。『資本論』第1巻第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」で詳論されたこの法則が、相対的過剰人口論であり、産業予備軍の形成である。

資本主義は人口問題を解決すると、マルクスは言っているのに、著者は人口減で自滅するとみている。前者は生産者人口・労働者人口で、後者は全人口と対象が異なっているが、ここがミソであり、この相違に私たちも注目したい。

大西は、第4章「マルクス経済学の人口論」に“補論”を立て、この問題を扱っている。

マルクスの「相対的過剰人口」を否定

著者はマルクスの「相対的過剰人口」が成立しない場合があるとする。かの、置塩信雄教授がそれを証明したというのである(置塩、1973)。その根拠は、歴史のある時点で資本の有機的構成が定常化するからだ。この点は、ここでは争わないことにしよう。機械の部分が増えていく、その分、働く人が減っていく。これは現代の工場の普通の光景だけど、人がひとりもいない工場は想像しにくいから、どこかで定常化(固定資本のとても高い比率で)するのは当然のように思う。

「本書で議論している『人口減』はこうした労働者需要の増減ではなく、そもそもし出生率が落ちているという問題で、別次元の問題だということです」(p.95)。

要は相対的な労働者の人口減でなく、“赤ちゃん”が少ない、やがてゼロになるという絶対的人口減なのだと。数年前の「増田レポート」の警告と一緒なのである。マルクスを切り捨てた分、“逆マルサス”(後述)に近づいて来たようだ。でも、これも措いて先に進もう。

資本主義は富も貧困も蓄積

資本主義は、一方の極に富を蓄積し、他方の極に貧困を蓄積する。これは『資本論』の重要なメッセージだ。労働力は貧困な側で再生産されるから、これは資本にとっても大問題で、そこに用意されているのが相対的過剰人口論だが、大西はこれを重要視せず、資本主義は絶対的に人口を減らし、最後にゼロになるというのだ。

センセーショナルな響きがあるが、では、いつゼロになるのか?この問いは月並みだが、著者の答えは驚くべきもので「遠い将来」(p.183)だ。ただし、自分の立論には「空想的」な部分が残っているとも言う(p.188)。

こう言われると「違和感はありませんでしたでしょうか」(あとがき)という読者への問いかけに、つい“あります”と、手をあげたくなる

社会科学なら「何百年先かわからない」(p.188)世界でなく、我らの時代、少なくとも次の世代ぐらいまでの話にして欲しい。マイナスに傾いている直線をどこまでも伸ばせばゼロの線に到達する。これは数理を知らなくても理解できる。しかし、そんな事態にはならないことも私達は知っている。

「数理マルクス経済学」では限界

人口問題は、経済学だけでは分析できない。経済学に“数理”をつけてみたところで限界があるのは同じである。

貧困 ⇒ 少子化というが、富裕層でも少子化なのはなぜ? 著者が82頁で引用した図4-1(古田隆彦の『人口波動で未来を読む』の転用)では世界史上、なんども人口減少・停滞があるが、そのたびに次の時代がやって来て人口が増えていったのはなぜだろう。そして、先進国の私達を待っている次の時代とはそもそも何なのであろうか。こういう問いには経済学だけでは答えられない。

第3章では、子供を効用関数に乗せ、社会学者のみならず一般的に許容し難い主張が連発する。「各人(親)は子供よりも自分のほうがより大事」(p.57)、「子供1人当りの効用(嬉しさ)は少しずつ減少する(逓減する)」(p.59)。

別稿のように、社会学者の金子勇が大きな疑問をもつのは当然である。

『資本論』を丁寧に読もう

著者はマルクス経済学者を自称しているが、それなら『資本論』の扱いを、もう少し丁寧にして欲しい。

第4章で『資本論』第1巻第8章「労働日」から引用した後で、引用に“皮肉や過剰に文学的な表現が使われており、難解」なので、自分で書き換えた訳を示し、「いかがでしょう。だいぶわかりやすくなったと思います」(p.72)と言う。

歴代の『資本論』の日本語訳者(向坂逸郎、岡崎次郎、長谷部文雄、などの大家)は、マルクスの難解なドイツ語を苦労して日本語に置き換えた。敢えて、抄訳したりせず、自分の見解を抑えて、原文に忠実に訳文を仕上げてきた。それが翻訳の使命である。

「だいぶわかりやすくなった」と自賛しているが、実は『資本論』でのマルクスの意図が変型されてしまったように思える。

われ亡きあとに洪水は来たれ!

『資本論』から、大西が引用した原文注3)

「われ亡きあとに洪水は来たれ!これがすべての資本家、すべての資本家国家の標語なのである。だから、資本は労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないのである」(p.71)。

著者の訳の一部。

「その問題が起きる前に自分は逃げ切れると考えている。したがって、この問題への対処には社会的な強制が必要となる」(p.72)。

もともとの翻訳は“社会によって”、著者訳は“社会的”で微妙に違う。そして決定的なのは、マルクスは資本の無関心を強調しているのに、著者はその無関心を強制力でなんとかすると、政策的志向性、を書き込んでることだ。

マルクスが強調しているのは資本に人のココロがないこと、資本は人間的なものではないことで、「洪水・・・」の一文は、自分たちの享楽以外に関心がなかった当時のベルサイユ宮殿の貴族の言葉を使って、まさに文学的に示したのである。資本は労働者の苦しみなどまるで気にしないのである。

自らの論文を「記念碑的論文」と自称する

もう少し深めよう。

著者は1991年に発表した自らの論文を「記念碑的論文」(p.79)としている。これは、自分の銅像を自分で建てたようなもので、謙虚を重んじるアカデミズムではめずらしいことだ。おそらく、自分の研究史の中での記念碑なのであろうが、ことばが、足りないのである。そうなるのは、数理の人の特徴なのかもしれないと、思った。

別のところで自らの論文を数理のかたまりと言っている。

社会主義世界の存在を後立てにしていたマルクス経済学は、社会主義の崩壊とともに消滅した(特に日本で)。ところが、日本では一人天下となった主流派・近代経済学も、アメリカのようには発展しなかった。その理由にはいくつかあるが、社会科学の他の分野との対話ができなかったことがあると私は考えている。象徴的にいえば、日本の「近代経済学」は敢えて哲学を持たず語らず、歴史認識も持たなかったから他の社会科学から相手にされなかった、対話が成立しなかったのである。

「数理経済学」と社会科学の論理の相違

マルクスの残したものには、数学表現が適しているものが多くある。マルクスも『資本論』第2巻などで多くの式を用いている。経済学で疲れた頭を微積分の問題を解いて休めたという逸話も伝わっている。近代的数学を使ってマルクスを復活させる。これは望むところだ。

しかし忘れてならないことがある。それは数理と、社会科学の論理の標的の違いだ。数式を解けば答えは、普通の場合は、ひとつである。数式の矢は正解の一点をめざす。

ところが社会科学の標的は、たとえて言えばダーツのそれである。確かに中心はある。そこに当たれば点数は高いが(ダブル・ブルは50点)、しかし他のところに刺さっても“はずれ”ではない。それどころか、中心からはずれたところに最高得点がある(トリプル20⇒60点)。これは、イギリス人の考えたことだが、中心を外れたところに大当たりがあるというのは、社会科学に通ずるものがある。

社会科学は一点をめざさない

社会科学は一点をめざすのでなく、“だいたいここら辺”というねらいを持つことに特徴がある。経済学も社会学も含めた社会科学では、人間と人間の作り出す社会を対象にしているからである。

数理に自信があれば放つ矢は一本あればよい。社会科学は必ずしもそうではない。ダーツが三本の矢を持つように。また矢の飛ぶ(この場合は時間的)距離は短い。社会科学の矢は、そんなに遠くまで飛ばないし、飛ばそうとしない方がよい。人間の能力・脳力・想像力に限界があるからである。

著者の言うように、近年における経済学分野における数理の発達は著しい。「マルクスやフリードリッヒ・エンゲルスも、これらの成果を知ることができていたならば、と悔やまれる」(まえがき)そうだが、二人が自らの学問が社会科学であることを忘れることもなかっただろう。二人とも、資本主義の非人間的状況を眼前にして日々闘ったのである。近未来を見据えて研究したのである。洪水は明日にも来る。そう思って、そこから人々を救うことを使命としていたに違いない。

その他の論点

1.「マルクスの唯物論は「人間は利益で行動する」(p.55)。ここは、「人間」ではなく「資本の人格化としての資本」に書き直してほしい。マルクスの「人間」の考察は深く、ホモ・エコノミクスではない。ついでに言えば、効用・満足度は計測が難しいが利益は一目瞭然である。。そのためマルクス経済学と近代経済学という二つの経済学は、なかなか共通の土俵を持てない。

2.『資本論』第1巻第4章について。まず、この章の標題は「貨幣の資本への転化」であって著者の言う「賃金論」ではない(p.69)。これはどうでもいいことではない。マルクスがここで論じているのは「労働力の価値」であり、価格表現である賃金という言葉を注意深く避けている。それは第4章が価値論の範囲内だからである。

賃金は、価値が価格になってから、つまり第6編でようやく労賃という表現が立てられる。第4章では労働力の価値がテーマなのに、著者は一向にかまわず、『資本論』第1巻第8章「労働日」に立ち入り、先に紹介した「超訳」を示すのである。さらに著者は先走って、賃金の切り下げ(p.70)という言葉を何回も使ってしまうが、これは完全なオフサイドである。価値と価格の論理次元の違いはマルクスがとても苦心したところでもあるのだから、「マルクス経済学者」を自称するなら気をつけて欲しいと思う。

3.ついでに、もうひとつ。著者は、人口不足を解消する手段として移民をあげている。ここで言う人口は労働力人口のことである。まさか、外国の赤ちゃんを誘拐するという話ではない。だとすると、ここでも賃金が問題になる。

これまでに外国人労働者が日本にやって来る(来た・過去形かも)のは日本の賃金が高いからであった(円安が進んだ現時点ではそうでもなくなった)。あるいは、日本の企業が彼らを雇うのは日本人より賃金が安いからであるなど、ここでは賃金を軸として議論してもらいたい。農村から都市への労働力の移動を論ずるときも同様だ。

本書が貢献したところ

最後に、本書の貢献について記しておこう。

まず新書という啓蒙書で、人口問題を提起し、普段ならあまり目立たない「歴史人口学」を正当に評価し紹介したことがあげられる。

次に、生産力と人口の間には因果関係がある。この点ではマルクスとマルサスの間に類似がある(p.108)というのは、日本の高度成長の要因を考えるときに重要な示唆になる。、唯物史観に対して人口史観を対置したのは高田保馬博士だが、この問題は社会学者の金子(2023)に譲りたい。

第三に、フェミニズムの論者の専売特許のようなジェンダー論も、労働力の問題として経済学が取り込むべし、という第6章の主張に賛同する。青柳和身氏の二つの図(表6-1、6-2)は興味深い(p.118-119)。しかし、ここでも賃金の分析が必要だろう。また家庭の主婦が職場に出ることで、日本家庭や家族はどう変化したのか?これは社会学の領域になり、すでに多くの研究蓄積がある。

社会の根本的転換の可能性

終りに、人口減少から脱却するために「社会の根本的転換、つまり体制的な転換が不可欠である」(p.167)と主張するが、それは日本一国なのかどうか。それは可能なのか尋ねてみたい。マルクスは『資本論』第1巻第20章で「労賃の国民的相違」を論じている。それがなぜ生じるのか。今日のような労働力移動が生じても、賃金の平準化がなかなか達成されないのはなぜか。

この想定においても、現実には各国間の所得格差が拡大するのはなぜか。平準化こそが共産主義だというのが著者の見解だが、それなら共産主義は世界的運動でなければならない。それでこそ、「万国のプロレタリアート団結せよ」は、現代によみがえるのではないか。

結びに代えて

2024年1月、人口戦略会議が『人口ビジョン2100』を発表した。“このままだと、○○になる”という言い方は、あまり科学的ではないが、2100年の推定人口が6300万人と聞けば誰しも衝撃を受けるだろう。

そこで、8000万人で止めるというのが『人口ビジョン2100』での目標だ。人口問題の難しさは、少子化対策をはじめとするこれまでの失敗が証明しているから、今回は果たしてどうかな、とやや懐疑的になる。

『人口ビジョン2100』での危機

今回のビジョンが危機感の産物だというのはよくわかる。問題は、誰の危機感なのかだ。

会議のメンバーの、あるいは日本の知識人の危機感という答えは、やはり皮相的だろう。危機感を抱いているのは日本の資本主義という体制であり、人口減少、特に少子化は、大西が認識しているように、社会体制そのものの危機だ。それが知識人の意識に反映する。

しかし、資本主義は歴史の中でその柔軟性を示してきた。体制の危機もあったが、みずからを変革することで乗り切ってきた。だから、今回もそうなるだろうという楽観もありそうだが、ビジョンの発表に際しての慌てぶりや内容を見ると、それもないようだ。

幸福度の高い世界最高水準である社会とは?

ビジョンの検討は後日にして、ここでは気になった点のみ指摘しておきたい。

「国民一人ひとりにとって豊かで幸福度の高い世界最高水準である社会」の実現に、幸福度という計測しがたい尺度が使われている。

また、定常化戦略と強靭化戦略が並列に置かれ、両者を一体的に進める、とする。しかし、人口の減少を止めるのと、少ない人口でもやっていくのとは、ベクトルの違いがあり、一体化が難しいのではないか。どちらかを先行するならわかるのだが、これでは混乱してしまう。

地方創生への配慮が欲しい

そして、地方創生をもっと強調してほしい。元旦の能登半島大地震が示したのは、インフラがととのっていない地方がいかに災害に弱いかであった。

生産性の低い中小企業、地方企業を切り捨てるのでは解決にならない。生産性の要素は様々だが、今日大事なのは、働く人の創造性が活かされる職場である。労働過程における「疎外」の排除である注4)。生きがいを感じられる職場の復活である。その成果が働く人に還元されることである。そういう職場である可能性は中小企業のほうで高い(※)のだから。

※ 黒瀬 直宏「働きがいを生み出す中小企業」『商工金融』2024年1月。この論文で、黒瀬は「経営パートナー主義」を主張、それが中小企業で実現しやすいことを事例を紹介して示している。

「4.永定住外国人政策」でも、移民はダメというのは時代錯誤だろう。労働者は働く国も、場所も選ぶ権利がある。それを国内法で禁止することはできない。移民政策の後進国から卒業しなければならない。

「人口問題は持続的・長期的に取り組むべきテーマ」である。これはその通りだが、私的所有制度を前提にした経済体制でどこまでやれるか。その検討こそ「人口戦略会議」や新しく設置する「国民会議」に期待したい。

補論 友寄英隆『人口減少社会とマルクス経済学』について

大西の新書と対照的な一冊の本が2023年の10月に出版された。これについて、簡単にコメントしておきたい。

(1)本書はホンモノのマルクス経済学の書物である。

マルクスとエンゲルスは人口問題に関する論考を多く残しているが、それらが本書の付録として一覧表に示されている。実に丁寧な仕事ぶりだ。資本論では資本一般を対象とする方法論的制約のため家族や人口への言及は少ない。しかし、「マルクス、エンゲルスにとって人口問題は終生の関心事であった」(p.283)。同じように、人口問題に強い関心を示していたのはケインズであった。著者は、彼の関連著作の一覧表も示し、その検討に一つの章をあてている。まことに丁寧だ。

(2)『資本論』の拡張

「人口問題の経済学研究のためには『資本論』の理論の拡張が必要」で「20世紀以降の人口問題の新しい展開を分析することによって、経済学として新たに必要となる理論を追加して『理論の拡張』を計る」(p.211)。

(3)相対的過剰人口論を評価し、その質的意義を強調。

場合によっては、労働人口の絶対的減少もある、というような量的問題でなく、資本が自分の再生産のための装置を生み出す、という質の問題を指摘している。

(4)「縮小再生産論」を提起

「人口減少社会における労働力の減少による再生産の縮小は資本論では想定されなかった問題であり、資本論の資本蓄積・再生産論を、理論的に「拡張」することが必要となる」(p.238)。これは、拡張であり、興味深いテーマである。著者のいう、逆マルサス主義を批判しなければならない。

友寄の著書は500ページを超える労作である。古典を丹念に読み、かつ現代の事象から視線をそらさず、理論の拡張を目指している。80歳を超えた著者の積極性に感動する。

注1)「資本主義終焉論」についての私たちの視点は濱田・金子(2021)を「参照のこと。

注2)水野の著書は数冊あるが、どれも終焉のあとの展望がない。歴史への言及が多く知識も豊富だが、“大きな物語”とかを使って結論がはっきりしない。斎藤については金子がアゴラ(2022年2月11日「「脱炭素と気候変動」の理論と限界③:仮定法は社会科学に有効か」)で批判している。ドイツ語のErde(土地)を敢えて“地球”と訳し、第1巻刊行後のマルクスをエコロジストに仕上げて、その仮想のマルクスに斎藤の自説を語らしている。巧妙なトリックである。なお、金子(2023:246-250)により詳しい批判がある。

注3)大西の使用したのは、全集版である(大月書店)。

注4)「疎外」問題も古くて新しい問題である。労働過程の主役は本来、労働者であるのに、そうでなくなってしまう、これこそ現代の疎外の象徴だろう。多くの働く人々が、特に若い人が職場でやる気をなくし、働くことに希望を持てずにいる。将来に夢を持てないのである。

【参照文献】

  • 濱田康行・金子勇,2021,「新時代の経済社会システム」『福岡大学商学論叢』第66巻第2・3号:139-184.
  • 金子勇,2023,『社会資本主義』ミネルヴァ書房.
  • Marx,K.,1859=1951,Zur Kritik der politischen Ökonomie,erstes Hett,Volksausgabe Dietz Verlag, Berlin.(=1956 武田隆夫ほか訳『経済学批判』 岩波書店).
  • Marx,K,1867=1890,Das Kapital: Kritik der Politishen Ökonomie,Dietz Verlag.(=2019-2021 日本共産党中央委員会社会科学研究所監修『資本論』(1~12巻)新日本出版社.
  • 水野和夫,2014,『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社.
  • 置塩信雄,1973,「相対的過剰人口の累積的生産の論証」『経済』9月号.
  • 斎藤幸平,2020,『人新世の「資本論」』集英社.
  • 友寄英隆,2023,『「人口減少」社会とマルクス経済学』新日本出版社.