人気漫画家はなぜ自死を選んだのか?中高年の危機

ヒトは何を生きているのだろうか?

「ヒトとそれ以外の動物の最大の違いはなんでしょうか?」と問われたら、心理学者である私は迷わずに「“物語”を生きること」と答えることでしょう。おそらく、これは私だけでなく心と脳の研究者の大半がこのように答えることでしょう。

2024年1月末、このような「ヒトの本質」を改めて実感させられる、心が痛い事件が起こりました。2023年後半、地味な女性サラリーマンがベリーダンスを通して自己実現する物語で大人気を博した某TVドラマがありましたが、その原作者が亡くなってしまったのです。自死とみられています。

悲しいことです。心からご冥福をお祈りします。

このTVドラマ、主演の女性俳優の演技やベリーダンスの魅力も含めて多くの人に愛されました。観ていた人たちを幸せにしました。

原作者も多くの人に支持されました。ドラマの制作陣もヒットに恵まれました。視聴者も関係者も「みんながハッピー」というエンディングになる…はずでした。

なのに、なぜ、こうなってしまったのでしょうか?

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私は心理学者として30年あまり、多くの方の人生や苦悩に立ち会ってきました。私が行うカウンセリングでは、私はご相談者の方と同じように悩み、苦しみます。

そのせいか、この訃報を聞いて自死に至るまでの苦悩が私の中に入ってきたような気持ちになってしまいました。

もちろん、私には業界の事情などはわかりません。ですが、自死を真剣に考える方々の多くは、「誰もご自身の苦悩をきちんと理解してくれない」という孤独感に悩まされます。

そこで、この訃報に際しての一心理学者の感想のようなものになりますが、自死を真剣に考える方々の苦悩と、その中で「物語」がどれだけ大切か共有したいと思います。

物語は命そのもの

ヒトという生き物は物語を生きるものです。ただ、このことはあまり良く知られていません。なので、「物語なんかなくても生きていけるじゃないか!!」と思う方もいらっしゃるでしょう。

ただ、ヒトは物語を求める脳を獲得してしまっています。逆に言えば物語なくして生きられない生き物になっています。

たとえば、あなたが未婚で婚約者がいたとしましょう。その婚約者から突然、「婚約破棄、他の人と結婚する」と告げられたらどうでしょう。

あなたは婚約者と結ばれてともに生きる物語を描いていました。その物語が突然奪われたら…。

実は婚約破棄は「うつ病」のきっかけになりやすい出来事の一つです。この他にも配偶者との死別や仕事の喪失、被災などによる日常の喪失、など生きていた物語が傷つくと、私たちは大ダメージを受けるます。私は日々、心理学者としてこのようなダメージを受けた方々の心の支援を行っています。

このように私たちは「生きるべき物語」を必要としています。「物語」はヒトにとっては「命そのもの」なのです。

物語を傷つけ合う現代社会

ただ、現代社会では多くの人が関わり合っています。その中で私たちはみなお互いの大切な物語を大なり小なり傷つけ合いながら生きています。

たとえば、上司の指導が部下を苦しめ、顧客の都合が業者を苦しめ、親の期待が子どもを追い詰め…。このような場面、あなたも遭遇したことがあるのではないでしょうか。

もちろん、誰かの物語を好んで傷つける方はあまりいないでしょう(いるとしたらパーソナリティ障害かもしれません)。ですが、みんな自分の物語を守るために、気づかずに誰かの物語を傷つけてしまうのです。

このことは心理学ではよく研究されていますので(例えばゲーム理論)、興味のある方は参考にしてもらえたらと思います。

物語の傷と心の痛み

さて、「物語」を傷つけられて感じる心の痛み、実はこの痛みは想像を絶するものがあります。このとき、私たちの脳内で何が起こるかは割愛しますが、この傷で私たちは強烈な心の痛みに苦しめられるのです。

そして、急速に絶望して生きる気力を失います。この状態が続くと、自死を考えてしまいます。

これは、かつては一部の精神科で「突発性うつ病」などとも言われていた状態です。疲労がこの状態を加速させることもわかっていますが、この状態で一人になると本当に危険なのです。一人で思い詰めることで、自死を行動に移してしまうからです。

実は活躍する中高年が危険

では、誰がこのような「突発性うつ病」に陥りやすいのでしょうか。

よく注目されるのは「若者の生きづらさ」でしょうか。若い人たちは自分という物語を描く途上にいます。さらに世の中という現実を学ぶ過程でもあります。

その中で、頻繁に物語を傷つけられる経験をします。実際、若い人には「物語の書き換え」が必要な場合も多いのです。よく言われる「若者の生きづらさ」の正体の一つはこれです。

ただ、実は「突発性うつ病」に陥りやすいのは守りたい物語が積み重なっている中高年期の方々も同じなのです。中高年の方々の多くは複数の物語を同時に生きています。

例えば、あなたの中にも、父との物語、母との物語、子どもとの物語、Aという仕事との物語、Bという仕事との物語…、など、多くの物語があることでしょう。そして、そのすべてが愛しく、守りたいものであることでしょう。

そして、若い人との違いは、物語を守ろうとすることで孤立しやすいことです。特に健康で活躍している中高年は「自分でなんとかできるでしょ」と思われがちです。

「だれも物語を守りぬく重みや苦悩に気づいてくれない、一緒に守ろうとしてくれない…」という孤独感に陥りやすいのです。

その中で、自分自身にも、人の世にも絶望して、真剣に自死を考えてしまうのです。日本におけるカウンセリング資格制度の父とされる河合隼雄先生は1990年代末頃この問題を「中年期の危機」として訴えました。しかし、この問題への社会的認知は未だに低いようです。

傷ついた物語を愛で合う仲間が必要です。

この度の訃報に至る経緯は様々に報道され、まだ検証が進められています。本当にこのように苦悩していたのか、また「誰が、どのように」物語を傷つけたのかはわかりません。

ですが、現代社会には私たちは時に物語を傷つけ合い、そして傷ついた自分の物語を修復しながら生きている現実があります。そして、物語の修復には私たちに安心感を与えてくれる温かい仲間の存在が必要です。傷ついた物語を愛で合う仲間の存在が心の痛みから私たちを救うのです。

カウンセリングの文脈では、たとえばC.ユングがこのことを強調しています。傷ついた物語は愛でるべきものなのです。決して更に傷つけるようなことがあってはならないのです。

さあ、傷ついた物語も含めて、ご一緒に生きていきましょう。

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あなたの物語が傷ついたとき、傷ついた物語を愛で合えるお仲間はいますか?もし、いたら、そのお仲間を大切にしてください。そして、お仲間の物語が傷ついていたときは、その物語を一緒に愛でであげてください。

このことで私たちはもっともっと自分自身の物語を生きることが出来るようになります。私もお互いの物語を目で合う仲間を作る場として、大人が心理学を学べる場を主催していますが、あなたにも、特に中高年の方にはそのような場があれば嬉しいです。

物語が傷ついたとき、大事なものは一緒に苦悩して、傷ついた物語を愛でてくれる仲間なのです。

杉山 崇(脳心理科学者・神奈川大学教授)
臨床心理士(公益法人認定)・公認心理師(国家資格)・1級キャリアコンサルティング技能士(国家資格)。
1990年代後半、精神科におけるうつ病患者の急増に立ち会い、うつ病の本当の治療法と「ヒト」の真相の解明に取り組む。現在は大学で教育・研究に従事する傍ら心理マネジメント研究所を主催し「心理学でもっと幸せに」を目指した大人のための心理学アカデミーも展開している。
日本学術振興会特別研究員などを経て現職。企業や個人の心理コンサルティングや心理支援の開発も行い、NHKニュース、ホンマでっかテレビ、などTV出演も多数。厚労省などの公共事業にも協力し各種検討会の委員や座長も務めて国政にも協力している。
サッカー日本代表の「ドーハの悲劇」以来、日本サッカーの発展を応援し各種メディアで心理学的な解説も行っている。