一流ほど「評価される側」を目指す理由

黒坂岳央です。

優秀な人、目を見張る結果を叩き出す一流の人と仕事の会話の中で感じることがある。それは「優秀な人ほど自分が評価する側ではなく、される側を目指す傾向がある」ということだ。そして成功したからそうしたのではなく、おそらくこうした人種は「元々評価する側には興味がなく、理由があって評価される立場に立っている」と感じる。

自分自身は特に優秀だったり特別な成功者というわけではないが、意識して「評価される側」に立つように心がけている。その理由を取り上げたい。

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評価する側にメリットはない

仕事でもスポーツでもあらゆる分野において同じことがいえるが、評価する側を目指す人はその逆の立場に比べて圧倒的に多いのではないだろうか。

たとえば政治家に対して常に愚痴不満をいい、「あいつはダメだ」とか「人間性がよくない」といったなんら建設的な代案はなく、ただの文句や愚痴を出す評価する立場の人はSNSや飲み屋にたくさんいる。だが「日本の政治はダメなのでこれ以上黙って見て入られない! 自分が変えてやる!」と立候補するものはほとんどいない。

口は出してもお金も手も絶対に出さない。なぜなら口でいうだけなら誰でもでき、なにか一つでも粗を見つけて文句を言えば自分の方が立場が上になれたような錯覚を覚えるからだ。つまり、評価する側は本人にとってはノーリスク・ハイリターンなおいしい立場と考えているという仮説が立つ。

だが冷静に考えると、評価という行為は本人が認識するほどシャープレシオが良いとは言えない。見識深いプロの評論家は別として、浅い批判に終始するだけでは時間とエネルギーという資源を失い、社会的信用や実績は何ら積み上がることはないからだ。伝え方を間違えて相手から訴訟を起こされてしまう人もいる。つまり、実際はハイリスクノーリターンになっている。

評価される側はメリットづくし

その一方で評価される側は、評価する側にはないメリットづくしである。

たとえば政治家は名前が知れるほど評価される回数が増えるが、相応に影響力を持っていたり社会的信用があるものだ。またスポーツやアイドルも活躍するほど多角的な評価を受けるが、それだけ注目を集めているという証明でもある。知名度相応に応援する人は増え、社会的信用にもつながる。逆に誰からも評価される立場にないということは、存在が可視化されていないということでもある。だから誰からから批判を受けたら「やった!少しずつ自分を知る人が増えている」と喜ぶべきだろう。

ビジネスでも同じである。たとえば記事や動画を出すと良くも悪くも、必ず評価をされる。時には厳しい批判を受けて心を痛める瞬間は誰しもある。だがそれ以上に大きなメリットがある。様々な人からいろんな意見が集まるので、見ている人のニーズや価値観、考え方を吸収できる。結果、真の多様性を肌感覚で理解できる。

たとえば「お前はこういうところがダメだ」と厳しい評価をくだされたとする。この場合、真の意味でメリットを享受しているのは評価を受け取る側であり、評価した側はただただ評価に使う時間を失っただけで損をしている。だが本人は評価に使った時間を他の生産的な行為に使えたトレードオフに気づいていない。

誤解のないようにいっておくと、もちろん評価する行為のすべてが損だとは思わない。たとえば好きな相手を応援する推し活は日常生活に活力を与えてくれるし、応援している相手から「ありがとう!」と好意的な反応があれば相互にメリットを享受できる。あくまで避けるべきは「お前はダメだ」という脳裏に浮かんだ言葉を無編集で脊髄反射的、非生産的なコメントをぶつけることだと思うのだ。

もちろん個人差はあると思うが、一流ほど他人に興味・関心がない人が多いと思っている。自分を高めることに時間と労力を注ぎ込みたいという価値観が社会的成功につながっているのだろう。逆に自分の人生の成長と発展を諦めた人ほど他人の足を引っ張ることに熱心な印象がある。積極的に評価される側を求める動機、それは圧倒的な自己成長への探究心なのだ。

 

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ビジネスジャーナリスト
シカゴの大学へ留学し会計学を学ぶ。大学卒業後、ブルームバーグLP、セブン&アイ、コカ・コーラボトラーズジャパン勤務を経て独立。フルーツギフトのビジネスに乗り出し、「高級フルーツギフト水菓子 肥後庵」を運営。経営者や医師などエグゼクティブの顧客にも利用されている。本業の傍ら、ビジネスジャーナリストとしても情報発信中。