民主主義がエモクラシ―となった?

2024年が「史上最大の選挙イヤー」(英誌エコノミスト)ということもあって、民主主義(Democracy)について論じる記事が目立つが、最近「Emocracy」という言葉を初めて知った。エモーションに民主主義を付けた造語だ。日本語に訳するとしたら、感情的民主主義、感情主導民主主義といったところだろう。現在の政治の世界ではこのエモクラシ―が猛威を振るっているというのだ。

演説上手な自由党キックル党首(自由党公式サイトから)

オーストリア連邦議会のソボツカ議長が新型コロナウイルスが席巻していた時、「我々の民主主義が事実や専門的知識に代わって感情や世論の流れに押されるエモクラシ―となってはならない」と警告を発していた。すなわち、コロナ感染問題について、感染症としての専門的な知識、ファクトを無視して、感情的な思い込みでその是非を論じてはならないというわけだ。その際に、同議長はエモクラシ―という言葉を使用していた。

選挙の年を迎えた国では、政党の支持率に関する世論調査が頻繁にメディアで報じられる。特に、ドイツやオーストリアでは極右政党が躍進しているだけに、その動きに政治家も国民も強い関心を持っているからだ。

選挙は民主主義の要であり、公平でフェアな選挙の実施は民主主義国家の証でもある。選挙に不正や投票集計に恣意的な工作が行われる場合、その選挙は公平で民主主義的な選挙ではなかった、と指摘される。

ところで、エモクラシ―という言葉について少し考えてみたい。人間は理性と共に感情がある。正確にいえば、感情が先行し、その感情の流れを理性が管理、制御しているといったほうがいいかもしれない。いずれにしても、人間は感情的な存在だ。その時々の感情の動きがその人の性格を形作っていく。怒りやすい人、冷静な人、陽気な人、といった具合だ。

選挙戦でもその人間の感情が大きな影響を与えることは間違いない。有権者の感情の動きに精通した政治家は自身の政策を表明する時も、有権者の感情的な反応を計算に入れてしゃべる。「演説がうまい」といわれる政治家はその演説内容というより、聴衆(有権者)の心を掴むのがうまい人といえる。いくら深遠な内容、政策を語っても聞く国民の心をしらけさせるならば、その政治家は演説が下手だといわれてしまう。

IT時代を迎え、情報は至る所に氾濫している。聞く人も情報には慣れている。有権者の心を掴む演説が出来ない政治家にとって、21世紀は厳しい。逆に、演説の巧みな政治家がいる。彼らの特徴は、その演説内容が専門性があるとか、理性的だというより、感情的な表現が多いことだ。

オーストリアでは極右政党自由党のキックル党首の演説をよく聞くが、内容は別として聞くものの心を掴み、時にはユーモアを入れ、政権を厳しく批判する。間の取り方もうまい。キックル党首の自由党が世論調査で30%を獲得して、選挙戦レースを独走しているが、けっして偶然のことではない。与党国民党のネハンマー首相、緑の党のコグラー副首相も演説力ではキックル党首に負けている。有権者の心、彷徨う感情の世界を掌握しない限り、選挙では有権者の票を取れない。

ここまで書くと、当方はエモクラシ―支持者であり、プロパガンダに長ける極右政党の党首を支持していると受け取られるかもしれないが、事実はそうではない。現実の政治の世界、選挙の動向で国民の「感情」のもつ影響力を無視できないからだ。

民主主義がエモクラシ―にとって代わられることは危険だし、選挙戦での政策論議は重要だ。有権者の感情にアピールするだけでは政治はできない。有権者が聞きたくないことをも、それが必要であるなら整然と語る信念のある政治家は稀だが、貴重な存在だ。ただ、感情を重視するエモクラシ―を表面的で薄っぺらいと一蹴するのは良くない。人は、有権者は、その時々の感情に動かされる存在だからだ。人の感情を止揚できるような演説が出来れば、その政治家は大きな影響力をもつだろう。民主主義から「D」を消したエモクラシ―を極右政党のプロパガンダの専売特許とさせてはならない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年2月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。