自己を徹見す

私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生に、下記「始終訓」というのがあります。

一、人の生涯、何事によらず、もうお終いと思うなかれ。未だかって始めらしき始めを持たざるを思うべし。
一、志業(しぎょう)は、その行きづまりを見せずして、一生を終るを真実の心得となす。
一、成功は、一分の霊感と九分の流汗(りゅうかん)に由る。退屈は、死の予告と知るべし。

上記の内「未だかって始めらしき始めを持たざるを思うべし」とは、「もうお終いと思う」その人が、それが始めと勝手に思い込んでいるだけではないかということでしょう。「真の志を得ているのか」「本当の天命を感得したか」――真の自分すら掴んでいないのに、始めだとか終わりだとか言っても仕方がないのです。

そもそも自分自身は分かっているようで中々分からぬものであり、自分自身を知ることは古代より人類共通のテーマであります。自分自身を知ることを、儒教の世界では「自得…じとく:本当の自分、絶対的な自己を掴む」と言い、仏教の世界では「見性…けんしょう:心の奥深くに潜む自身の本来の姿を見極める」と言いますが、自己を得るべく修行することがあらゆることの出発点です。

安岡先生は御著書で「人間は自得から出発しなければいけない。人間いろんなものを失うが、何が一番失いやすいかというと、自己である。根本的・本質的に言えば、人間はまず自己を得なければいけない。人間は根本的に自己を徹見する、把握する。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、根本問題である」と仰っています。

要するに、鏡に映る自分の姿は鏡を通じた一種の虚像であり本物でないのと同様に、心の奥深くに潜む自分自身、己を知るは極めて難しいことなのです。それは人生で様々な経験を重ね行く中で一つひとつ分かってき、それが人間一人ひとり出生時に天が与えし命に繋がって行き、世のため人のためという志になるわけです。

「人の生涯、何事によらず、もうお終いと思う」てはなりません。此の世のあらゆる出来事は、皆天の配剤であります。我々人間は、人の人たる所以の道を貫き唯ひたすらに努力し続けて、天が与えたもうた自分の役目を己の力で一生懸命追求し、その中で自得して行くのです。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年2月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。