勇気というもの

嘗て南アフリカにあってアパルトヘイト(人種差別・隔離政策)を廃絶すべく、27年に及ぶ服役を経て遂には大統領となった故ネルソン・マンデラは、「勇気とは恐怖がないことではなく、恐怖に打ち勝つことだと学びました。勇敢な人とは、恐れを感じない人ではなく、その恐れを克服する人です」と言っています。

此の勇気ということでは当ブログ「北尾吉孝日記」で以前、『勇なきは去れと言うけれど』という中で次のように述べておきました――天下の「三達徳」知・仁・勇は『中庸』にある徳ですが、『論語』の中では勇は他の二つに比してやや低く扱われています。歴史的に見ても、勇は『孟子』以降に付け加えられ三達徳という形になったようです。此の勇も色々で、例えば兎に角いきり立って冷静な判断をせず猪突猛進するタイプ、つまり血気の勇がある一方、「義を見て為(せ)ざるは、勇なきなり」(『論語』為政第二の二十四)とあるように、正義・大義に基づく勇は高徳に繋がると思います。

勇気とは日本人にとっては、武士道あるいは更に遡って儒学といった所にその源泉があるのではないかと思われ、「義」というものと非常に結び付いているような気がします。『安岡正篤ノート』(拙著)でも述べた通り、元々日本にあった神道に外来の思想・宗教(儒教や仏教等)が入ってくると、日本人はそれらを受容しより高次元に発展させてき、そしてその最終型として武士道というものに繋げて行きました。これ正に「和」の魂でありますが、日本人の祖先が儒学の中から義を学び取ってき、武士道の中でそれを世界比類なき一つの行動哲学として開花させたように思うのです。

「内(うち)に省みて疚(やま)しからずんば、夫(そ)れ何をか憂え何をか懼(おそ)れん」(顔淵第十二の四)――私が中国古典とりわけ『論語』から学んできたのは、自分の考える筋を通し義を貫くという生き方です。如何なる事態に直面しようとも主体性を持ち、そうした姿勢を崩さず勇気を持って貫き通してきたつもりです。私自身「人間の真実の価値は、なさねばならぬことをきちんとするところにある」(河合栄治郎)と思うのです。

『孟子』に「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」という、あの有名な孔子の言があります。世の様々な評判を一切気にせずに多くの反対があろうとも自分が正しいと信じた道を恐れなく突き進んで行く精神こそが、勇気というものだと思います。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年2月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。