欧州安保論に一石投じたトランプ発言

北大西洋条約機構(NATO)加盟国内でトランプ前米大統領の選挙集会での発言が大きな波紋と動揺を与えている。トランプ氏は10日、選挙集会で大統領在任時代の話として、「国防費を十分に支出しないNATO加盟国がロシアに攻撃されたとしても米国は守らないし、ロシアにしたいようにさせるだけだ、と語ったことがある」と述べたのだ。それがが報じられると、NATOの本部ブリュッセルからは大きな憤りと批判の声が飛び出したのだ。なぜならば、NATO憲章では加盟国が攻撃を受けた場合、集団防衛がその要となっているが、トランプ氏の発言はそれを完全に無視しているばかりか、ロシアを煽っているからだ。

NATO加盟国の国旗(NATO公式サイトから)

トランプ氏は現時点で米共和党の次期大統領候補者に最も近い政治家であり、バイデン米大統領とホワイトハウス入りを争っている。トランプ氏が11月の大統領選で勝利した場合、ロシアがバルト3国やポーランドに侵略したとしても、「米国は守らず、ロシアが好きなようにすればいいさ」といった状況が生まれてくる可能性が排除できなくなった、と受け取られている。だから、NATO加盟国はトランプ氏の発言を無視できないわけだ。欧州の盟主ドイツのショルツ首相は12日、「無責任だけではなく、危険な発言だ」と怒りを露わにしているほどだ。

米軍抜きのNATO軍は脆弱だ。米国がにらみを利かしているからロシアはこれまでNATO加盟国に侵攻できなかったことは周知の事実だろう。トランプ氏のNATO軽視発言は今回が初めてではない。過去、NATO脱退すら示唆したことがある。

トランプ氏の主張には正当性もある。NATO加盟国(31カ国)はこれまで安全保障問題は米国任せで自国の国防費の増額を実行せずにきた。それに対し、トランプ氏は「米国の若い兵士が約束を守らない国の国民を犠牲を払ってまで保護する義務はない」と批判してきた。米国を除いて国防支出を少なくとも国内総生産(GDP)比2%とするという公約を実行したNATO加盟国はポーランドなど一部だけだ。その意味で、トランプ氏の主張は暴言とは言えない。ちなみに、ロシア軍がウクライナに侵攻した直後、ドイツは国防費の増額を発表している。

ただ、米国がNATOから脱退するということは現時点では非現実的だ。なぜならば、米上院議会で3分の2の支持がなければ脱退できないからだ。トランプ氏の共和党だけでは脱退できない。

トランプ氏の発言に対し、NATO加盟国では、米国抜きの欧州の安保体制の強化が急務だという声が改めて出てきている。一部では米国の「核の傘」に代わって、欧州独自の「核の傘」を設置すればいいという意見が聞かれる。NATO加盟国では米国を除くと英国とフランスの2カ国が核保有国だ。米国の核の傘の代わりに、フランスの戦略核が欧州の核の傘となるという主張もあるが、核拡散防止条約(NPT)もあって実行までには難しい問題が山積している。

ところで、ロシア軍のNATO加盟国への侵攻というシナリオに対し、オーストリアのインスブルック大学のロシア問題専門家、政治学者マンゴット教授は13日、ドイツ民間ニュース専門局ntvとのインタビューの中で、「ロシア軍の実力はウクライナ戦争でも明らかになったように、現在の通常兵器ではNATO加盟国を侵略する能力を有していない。ロシアがNATO加盟国攻撃の能力を有するには6年から10年はかかるだろう」と説明、NATO加盟国内へのロシア侵攻論を一蹴している。

いずれにしても、トランプ氏の発言は、NATO加盟国向けというより、今年11月の米大統領選を意識した国内向けだろう。トランプ氏にとっては米国の国益を損なうことに反対する“米国ファースト”の延長に過ぎないのかもしれない。その意味で、米国と欧州のNATO加盟国の亀裂か、といって騒ぐ必要はない。プーチン大統領を喜ばすだけだ。ただ、トランプ氏の発言は、米国の軍事力に依存してきた他のNATO加盟国に自国の安全は自国で守るという基本的な立場を再確認する機会を提供したことは間違いないだろう。

なお、NATOのストルテンベルグ事務総長は14日、記者会見でトランプ氏のNATO軽視発言に重ねて遺憾を表明する一方、「今年末までに18カ国のNATO加盟国が軍事支出をGDP比で2%の目標を実現する予定だ」と語った。

トランプ大統領 インスタグラムより


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年2月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。