1999年にドイツ南部バイエルン州ミュンヘン近郊のアッシュハイムに創設された金融サービス企業ワイヤーカードは顧客に決算サービスを提供し、フランクフルト証券取引所上場企業となり、短期間に世界40カ国に拠点を置く多国籍企業に成長したが、2019年に不正会計が発覚し、当時の最高経営責任者(CEO)のマーカス・ブラウン氏が辞任に追い込まれ、経営破綻した。ワイヤーカードの破綻には監査機関や独連邦金融監督庁の怠慢と汚職も絡んでメディア界で大きく報道された。
それだけではない。同社最高執行責任者(COO)のトップマネージャー、ヤン・マルサレク氏が不正会計が発覚すると逃亡し、行方不明となっていたが、西側情報機関は、「マルサレク氏は過去10年余り、ロシアのスパイだった可能性が高い」と受け取っている。
ここではワイヤーカード・スキャンダルを改めて報道するつもりはないが、インターポールからワイヤーカードの不正決算に関与していた容疑で捜査されていたマルサレク氏はロシアに居住し、アイデンティティを変えてロシア正教会の聖職者に変装して暗躍しているというのだ。オーストリア日刊紙「スタンダード」、ドイツの週刊誌「シュピーゲル」、ZDF、ロシアの捜査プラットフォーム「インサイダー」の共同調査で明らかになった。オーストリア通信(APA)の情報によると、これらの暴露は、特にロシアの飛行データの大規模な漏洩によって可能になった。
マルサレク氏とロシアの特殊機関との関係は2013年に始まったという。オーストリア国営放送のヴェブサイトは1日、「マルサレクはロシアの司祭に変装」という見出しで、「ワイヤーカードのマネージャー、ヤン・マルサレクの物語は、スパイ映画の材料となる。新しい調査では、マルサレクはロシア正教会の司祭に変装している。ロシアの諜報機関が彼にパスポートを提供したと言われている。マルサレク自身もおそらく何年もモスクワのためにスパイ活動をしていたのだろう」と報じている。
マルサレク氏は当時、モスクワ地下鉄交通会社との契約交渉の際、ロシア人実業家が若い女性をマルサレク氏に紹介したが、同女性はクレムリンの指導部と良いコネをもつ人物で、マルサレク氏とロシア情報機関との関係を繋ぐ人物だ。スパイ物語には若い女性が欠かせられないが、マルサレク氏の場合も例外ではなかったわけだ。
ロンドン警察は昨年2月、誘拐や暗殺を計画していた疑いで5人のブルガリア人を逮捕した。英国当局によると、5人は2020年8月から2023年2月までマルサレクから委託を受け、ヨーロッパ全土でクレムリンに批判的な人々を調査・追跡していた。すなわち、マルサレクは現在もロシアの利益のために様々な工作の舞台裏で活動しているわけだ。
ウィーン生まれのマルサレク氏(43)はワイヤーカード・スキャンダルの主な容疑者であり、詐欺容疑で国際逮捕状が出て、指名手配されている。「南ドイツ新聞」の情報によると、同氏はモスクワ近郊のマイエンドルフ庭園住宅地に住んでおり、ロシア特務機関による常時監視下にあるという。
西側トップ企業のビジネスマンがロシアのスパイだったことは過去にもあったが、マルサレク氏はロシア正教会の聖職者にアイデンティティを変えて依然、さまざまな活動に従事しているというのだ。スパイが聖職者に変装し、自身のアイデンティティをカムフラージュすることはロシアでは珍しくはない。ちなみに、ロシア正教会は旧ソ連共産党政権時代から政権と癒着してきた。
例えば、ロシア正教会の最高指導者、モスクワ総主教のキリル1世は西側情報機関によると、KGB(ソ連国家保安委員会)出身者だ。キリル1世はロシアのプーチン大統領を支持し、ロシア軍のウクライナ侵攻をこれまで一貫して弁護し、「ウクライナに対するロシアの戦争は西洋の悪に対する善の形而上学的闘争だ」と強調してきた。ウクライナ戦争は「善」と「悪」の価値観の戦いだから、敗北は許されない。キリル1世はプーチン氏の主導のもと、西側社会の退廃文化を壊滅させなければならないと説明してきた。神の愛を説く聖職者が民間人や子供たちを殺害する戦争犯罪を繰り返すプーチン大統領のウクライナ戦争を全面的に支持するのは、キリル1世のアイデンティティは聖職者ではなく、KGBだということを端的に証明しているわけだ。マルサレク氏の司祭変装は突飛なことではなく、旧ソ連共産党時代からのロシアの長い伝統というべきだろう。
ところで、司祭に変装したマルサレク氏の写真が手元にないので判断できないが、同氏が中国に出入国する際、中国の顔認証システムはマルサレク氏の出自を見破ることができるだろうか。中国の顔認証システムの性能を知る上でも絶好のチャンスだ。いずれにしても、顔認識システムがさらに性能を向上し、誤認率がゼロなれば、スパイが聖職者に変装するといった工作は考えられなくなる。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年3月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。