遊んでいると偶然に成果が生まれる

人は、組織に属する限りにおいて仕事をするのなら、組織を離れているときには、仕事をしていないのである。仕事をせずに、何をしているのかは多様の極みだから、簡単に遊んでいるとしておく。そうすると、働き方改革の実践において、一定の要件のもとで、組織を離れた自主的な活動が認められるのならば、その活動は、組織の職務命令に基づくものではないので、遊びである。

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ここで重要なのは、個人が自主的に取り組むのは、そのことを個人が好きで楽しんでいるからだという自明極まりない点である。実際、組織内の命令に基づく仕事は、多くの場合、楽しくない。楽しくないから、生産性が上がらないし、創造も起きない。もちろん、楽しく遊んでいるから生産性が上がり、創造が起きるとも限らないが、少なくとも、遊びに組織改革の可能性を求めることは自然である。

遊びという言葉には、余裕という意味がある。余裕は、悪くいえば、無駄である。仕事の余暇に遊ぶというのは、極めて常識的な考え方である。実際、組織を離れた自主的活動も、多くの場合、仕事の余裕をみて、余暇に行う前提なのであろうし、更には、好きで楽しい余暇の活動にいそしむためには、能率よく仕事を片付けて、余裕を作れということなのであろう。遊ぶ人は余っている人であり、余っている人には遊ぶ時間があるということである。

さて、当然のことだが、遊びは仕事ではないから、無駄である。問題は、この無駄が仕事に転化するかどうか、即ち、創造が起きるかどうかということである。しかし、創造の起きることは、期待にすぎず、普通の仕事のように、成果につながる論理的展開が事前に巧まれてはいないからこそ、余暇の活動は遊びなのである。要は、遊びが成果につながるのは、偶然なのであり、創造は偶然なのである。

偶然が成果につながれば、成果につながったことが巧まれた必然であったかのように、成功の物語が創作される。しかし、それは歴史を都合よく改竄することである。偶然は偶然なのである。偶然は必然にならないのだから、要は、論点は偶然が成果につながる確率なのである。

森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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