こんにちは。自由主義研究所の藤丸です。
前回、アメリカの保守系政治集会CPACでの、アルゼンチン・ミレイ大統領の演説を紹介しました。
この演説の中で、「制限のない民主主義」という話がありました。
一部、引用してみます。
「制限のない民主主義」という考え方も、問題をさらに悪化させています。
民主主義は本来、少数派の中でも最も小さな存在である個人の権利を尊重するように設計されたものです。
しかし、社会主義の思想が入り込み、制限のない民主主義という考え方が入り込むと、ポピュリズムが入り込みます。抽象的な話にとどまらないように、例を挙げましょう。
4匹のオオカミと1羽のニワトリが集まったとしましょう。
さあ、今夜何を食べるか投票しましょう。
…彼らはニワトリを食べました。
「4匹のオオカミ」と「1羽のニワトリ」の合計5匹がいたとして、「今夜何を食べるか」という議題について、制限のない民主主義のやり方で決定するとしたら、「ニワトリを食べる」という意見にオオカミの4票が入り、その結果、ニワトリは食べられてしまった。
という話です。
多数決で「何でも決めていい」としてしまうと、少数派の個人の権利が脅かされることがあります。
そもそも「自由主義」と「民主主義」の違いは何でしょうか?あまり深く考えたことのない人が多いかもしれません。日常でも、自由民主党の党名にもなっているように、自由や民主という語はよく使われ、どちらも同じように「漠然と良いもの」というふうに思われています。
しかし、自由主義と民主主義は全く違うものです。
以前、「自由とはなにか」という記事で、自由主義のいう自由とは、消極的自由のことだと書きました。
古典的自由主義(クラシカルリベラル)の定義では、消極的自由とは、「他人の恣意の強制からの自由」という意味です。対義は、積極的自由(望むことを望むとおりに実行しうること)です。
ところが、「自由」という言葉を「政治的自由(参政権など)」の意味で用い、そうすることで自由主義と民主主義を同じものだと勘違いする人がいます。
今回は、リバタリアンの中ではもっとも穏健な自由主義者であるハイエクの「自由の条件」を参考に、「自由主義と民主主義の違いとは?」「なぜ自由主義の前提で民主主義を行うことが重要なのか」について書こうと思います。
1. 自由主義の考える「民主主義」とは?
自由主義は、個々人の消極的自由の尊重を目的とします。
「リバタリアニズムとは、個人の生命、自由、財産を擁護するために、不侵略の原則に基づき、他者の人生の活動を全面的に尊重することである。」
これは、ミレイ大統領のダボス会議での演説の中で紹介した、アルゼンチンの自由主義者アルベルト・ベネガス・リンチの言葉です。
自由主義者は、何かを決定する方法として民主主義的方法(≒多数決)を認めますが、民主主義的方法(≒多数決)が、自由を守るための保証になる、とは考えません。
国民の多数が『自由を守る』という意思と、自由を守るに必要な知識をもつことによってのみ、自由は守られると考えます。
自由主義は、『法の支配』を大事にします。多数決で選ばれた政治権力は、 『法の支配』によって制限を受けることが重要です。
『法の支配』の反対の言葉は、『政府による恣意の強制』です。
つまり、民主主義的な選挙によって選ばれたとしても、政府(政治権力者)は何でも好きにできるというわけではないのです。政府ができることには「制限」があり、それは「法の支配」によってもたらされる制限なのです。
2. 自由主義の考える『法の支配』とは?
では、その「法の支配」とはなんでしょうか?
こちらの記事にも少し書きました。↓
自由主義は、政府による強制的の行使には厳重な制限が必要であると考えます。
政府に強制力が与えられている理由は、個人を「他人の強制」から守るためですが、同時に個人は「政府の恣意の強制」からも保護されなければなりません。
すべての人が守るべき共通の法を定め、この法を守る限り、各人は自己の能力と機会を自分の意思で利用できます。政府は、その強制力の行使を法の執行に制限するべきなのです。これが「法の支配」です。
政府の恣意による政治は、国会によって満場一致で通過した法律によって認められた場合にも、自由主義者のいう「法の支配」は死滅します。
恣意の強制を認める法は、法の支配の否定であり、個人の自由は失われます。必要なのは、自由のための「法の支配」なのです。
3. 民主主義の正当性
それでは、民主主義はどのような理由で正当性をもつのでしょうか? 主に以下の3つの議論があります。
① 複数の対立する意見のうち、どれか一つを勝たせなくてはならない場合(戦争よりも多数決は、効率的で平和な手段)
② 民主主義は、消極的自由のもっとも重要な安全装置であるという主張
③ 民主主義的制度の存在が、公共問題に関する一般的理解に与える影響のため(ハイエクはこれが最も有力と考えた)
- 民主主義は、民を教育する唯一の効果的な方法(トクヴィル「アメリカにおける民主政治」)
- 民主主義は、意見を形成する過程である。
- 民主主義の利益は、長期的にのみあらわれる。
短期的な成果は、他の政府形態の成果よりも劣ることはありえる(短期的には独裁者の命令の方が、物事を行うのに効果的な場合もありうる)
4. 民主主義の限界
多数者の意見により政府を導くという概念(民主主義)は、多数者の意見が政治から独立し、自生的な過程から出現するとの信念に基づいています。
多数決により、その時点で人々が何を望んでいるかはわかります。しかし、人々は、政策などの事情にもっと詳しかったならば、違うことを望むかもしれません。
社会は多数者の水準に従うほうが良いという考え方は、文明を発達させた原理とは正反対のものです。文明の前進は、少数者が多数者を納得させるところにあります。
民主主義は、恣意的権力を防止することを意図したものであるのに、多数投票の権威によって新しい恣意的権力を正当化する場合があります。
多数者が自分たちにとって有利な規則を制定し特権を得ることは、明らかに道徳的正当性がありません。
民主主義において、「権利とは、多数がそうと決定するものである」と主張されるときに、まさに民主主義は煽動主義に堕落するのです。
5. 民主主義が目的化した教条的な(原理主義的、極端な)民主主義者
教条的な民主主義者は、「多数が望むという事実そのもの」=「善」と考えます。皆が「政治に関わること自体が大事」だと考えるのです。
政府の目的に関しては何も語りません。その時の多数意見が、政府に対する制限になると考えるのです。そして、できるかぎり多くの問題を多数決によって決定するのが望ましいと考えるのです。
6. 自由主義の前提がない場合どういったことが起こるのか?~隷従への道
教条的な民主主義者は、特定の目的を達成するために、権力を政府機関に引き渡します。
やがて、恣意の政策を許容するようになり、また社会にとって何が善であるかの決定を専門家に任せるべきだと考えるようになります。
政府機関は、これを支持します。
政府機関は、一度権力を握れば、実際にその権力を行使するのは政府自身であって、国民ではないことを良く知っているのです。
「強制力」が特定の目的のために政府機関に与えられれば、民主主義的な議会は、そのような権力をうまく管理することはできません。そしてそれは、個人的自由(消極的自由)を脅かすものになります。
これらは抽象的でわかりにくいかもしれませんが、具体例としては、ナチスがわかりやすい例です。
7. 民主主義と自由主義の違い
自由主義は「消極的自由」の尊重という目的そのものです。
自由主義にとって、「民主主義」は物事を決めるための一時的な手段にすぎません。民主主義は最善の方法かもしれませんが、目的そのものではないのです。
■「自由主義」の反対の言葉は「全体主義」
ある権威主義的政府(独裁、専制)が、自由の原則にもとづいて行動することも理論上は考えられます。
■「民主主義」の反対の言葉は「権威主義的政府」
民主主義で決まった政府は、結果的に全体主義的権力をふりまわすこともあります(ナチスは選挙で民主主義的に選ばれて政権を握りました)
つまり、「民主主義はよいことだから、民主主義が広がれば人類にとって常に利益をもたらす」ということはありえないのです。
自由主義の前提で(個人の消極的自由の尊重を目的として)、民主主義的に政治を行うことが重要で、民主主義自体が目的化すると恐ろしいことになり得る、ということは非常に重要なことだと思います。
最後に、冒頭に紹介した「4匹のオオカミと1羽のニワトリの5匹で多数決をとると、ニワトリが食べられてしまった(ニワトリの権利がないがしろにされた)」という話に戻りますが、例えば、民主主義的なやり方で「富裕層からもっと税金をとろう」「現役世代からもっと社会保険料をとろう」と政策が決められるとき、少数者の権利が踏みにじられていないか、改めて考える必要があると思います。
編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2024年3月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。