都道府県名と都道府県庁所在地の名称が同じところと違うところがあるのはなぜなのか。『消えた都道府県名の謎』(イースト新書Q)で書いたところだが、あらためてその事情を全調査してPRESIDENT Onlineの記事にした。
言うまでも無く、「戊辰戦争の勝敗が影響している」などというのは何の根拠もない都市伝説で、そんなこという人のいうことや本の内容はほかの部分も信用できないといってよい。
47都道府県のうち、その名称が漢字表記も含めて都道府県庁所在地と同じ所は28ある。多数派であるが、一致しない所も19あり例外というほど少ないわけでない。また、一致しているといっても、県都の名称がそのまま県の名称になったわけではないところもあるじ、一致しないと言っても同じ町の別名だったりする。
都道府県と県都の名称がどうやって決まったのか、地元の人でも誤解していることが多い。郷土史の専門家は、ほかの県の事情をふまえずに思いつきでいっていることが多い。
あるいは、九州はすべて県庁所在地と県の名前が一致するから戊辰戦争とやはり関係あるといいはる人もいるが、佐賀、大分、宮崎、鹿児島はいずれも、県庁所在地の町の名前と違う名前を県名にする場合に使われる県庁所在地の郡名がそのまま都市名になったケースである。
佐賀は竜造寺氏や鍋島氏の本拠地となり、城も城下町も肥前国佐嘉郡にちなんで佐賀と名付けられた。
大分は、もともと府内が大友宗麟や江戸時代の松平氏の城下町の名だが、郡名を取って町も大分と改称した。
宮崎は、鹿児島県に編入されていた都城県と美々津県が独立するときに両県の中間地帯に新しい都市を建設し、郡名をとって県名と都市名を宮崎とした。
鹿児島は、室町時代から島津氏の館が郡内にあったが、江戸時代の初期になって島津家久が鹿児島城を築き城下町の名ともなった。
このほか秋田、千葉も同様だ。
秋田は久保田といったが、廃藩置県直前に都市名を秋田にした。
千葉は鎌倉時代に関東の名族・千葉氏の本拠だったところだが、千葉氏の名字は千葉郡に由来している。