僕に「引退勧告」を出した泉房穂さんと考える「去り際の美学」

田原総一朗です。

以前、元明石市長泉房穂さんと、対談したことを書いた。それを読んで、「えっ、あの人と対談したのか」と、驚かれた方もいたのではないかと思う。なぜなら、2023年7月、泉さんは「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日系)に出演後、こんな文章を『FLASH』に載せていたからだ。

「田原さんの変貌ぶりに愕然とした」「『自分は批判精神を持ち続けている』と思っているのかもしれませんが、その姿勢は感じ取れなかった。それが残念」等々、僕の印象を書き、最後にこうまとめていた。

「(田原は)さすがに89歳。『去り際の美学』という言葉もあるように思う」

公開で「引退勧告」を受けたも同然だった。泉さんは若い頃に、「朝生」のスタッフだった時期がある。その思い入れもあったのだろう。書かれた側は、普通は怒って、「あんなヤツとはもう話もしない」となるのかもしれない。ところが、僕は全く逆だ。

僕は怒りを感じなかった。泉さんが僕を批判した記事を読んで、僕はその通りだと思ったのである。最近は仕事をする相手は孫世代だ。誰も遠慮して僕に厳しいことを言わないから、むしろ、うれしかったのだ。ただ、僕としてもジャーナリストとして言いたいことがあった。そこで記事を読んだ後、泉さんに電話をした。

彼は不在だったが、代わって出た方に「ありがとう」と伝えた。すると、泉さんは「やはり田原さんは昔も今もすごい」とSNSで発信してくれた。というわけで、その後も泉さんに「朝生」に出ていただいているし、なんと共著まで出すことになった。タイトルは『去り際の美学』(実業之日本社)。まさに泉さんが、僕に突き付けた言葉である。

僕は、批判する関係、敵対する関係であっても、会って話すことが大事だと思っている。顔を突き合わせて話せば何かしら共通する思いや、分かり合える部分もあるはずなのだ。そうやって僕はこれまで、右翼・左翼、原発推進・反対、宗教者、政治家……あらゆる思想、あらゆる立場の人に会ってきた。ジャーナリストとは、そうあるべきと思っている。

泉さんとは改めて、何度もさまざまな話をした。弟さんに障害があったこと、「この社会を優しくしてみせる」と10歳の時に誓ったことは、以前に書いた。東大で学生運動に身を投じる。写真家 藤原新也さんの、ガンジス川のほとりで、犬が人の死体を食べる写真に、衝撃を受け、インドに飛んだ。本当にそうした光景を見たという。

また、20歳の時、ロッキード問題でマスコミに叩かれながらも選挙に圧勝した田中角栄に興味を持ち、新潟まで会いに行った。本人には会えなかったが、越山会の人々の田中角栄に対する熱い思いを聞き、最後に「越山会に入れ」と勧誘され、帰って来たという。「政治の原点は、マスコミじゃなく、庶民の心をつかむことだ」と実感し、それが政治家としての原点になった。

僕は泉さんとの共通項を、いくつも見出していた。興味を持ったり、疑問を持ったら、可能な限り現場に行き、当事者に話を聞くこと。ジャーナリストと政治家という違いはあるが、それは共に大前提なのだ。

そして必要なことであれば、堂々と批判する、また、批判されることも恐れない。だからこそ僕は泉さんの批判を読んで、話してみたいと思ったし、泉さんも応じて議論をした。そんなことが実は民主主義の基本だと思う。それなのに、まともな議論をしない政治家が多すぎる。

僕は泉さんと話し、「こういう政治家がまだいるのか」と、うれしく、また救いを感じた。泉さんはまだ60歳、「この日本を優しく」変えてほしいと思っている。ところで、泉さんの引退勧告に、僕はどう応じたか。

「泉さんには『去り際の美学』があるわけ。僕にはないの。死ぬまでやろうと思ってる。殺されてもいいと思って『朝生』をやってきたんだから」

対する泉さんも、最後にはこう言ってくれた。

「『去り際の美学』というのは、きれいに辞めることだけではないということですよね」。

4月15日に僕は90歳を迎える。まだまだ去るわけにはいかない、改めてそう誓った。


編集部より:この記事は「田原総一朗 公式ブログ」2024年3月29日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた田原氏、田原事務所に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「田原総一朗 公式ブログ」をご覧ください。