広い資本主義:フレイザー『資本主義』に学ぶ

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フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』を読み込む

本稿では、フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(江口泰子訳、筑摩書房、2023)を素材にして、最新の資本主義論を考えてみたい。

もともとの英語のタイトルはCannibal Capitalism(2022)であるから、直訳すれば「共食い資本主義」になる。

経済を生産・流通・消費の流れるプロセスで把握する。これは経済学者には至極当然のことだ。しかし、社会はもっと広い。でも、対象を拡大すれば、それだけ研究はやりにくくなるし、出てきた結果はややぼけたものになる。このジレンマがいつでもつきまとう。

経済法則を探求する

経済は社会の上に展開し、そうなるためには様々な制度、法律、つまり政治で守られている。それもわかっている。ただし、経済領域にはそこだけに発生し貫徹する法則がある。いわゆる経済法則だ。これは、発生元の経済面だけでなく広く社会に作用を広げていく普遍性も持っている。だから、経済法則をクリアに純粋な形で取り出したいなら、研究対象を経済分野に限定したほうが良い。これは合理的な学問の方法である。

ここでは、マルクス経済学も近代経済学も変わらない。マルクス自身は社会科学分野、歴史学、哲学などに広い知識を持っていたが、『資本論』を書くに際しては敢えて経済分野に限定している。『経済学批判』に示された”研究プラン“にそう書いている。

彼に先行する古典派の大家たちも幅広い知識人であったが、あえて舞台を限定して考察を進めたのであった。近代経済学の源流に位置する数々の巨人たちも、かのケインズも同様に分野を限定した。

だから、フレイザーが、“もっとひろく”と呼びかけても、経済学者はにわかには応じられない。たとえそれが現代の事象への経済学の無力という深刻な反省から来ていてもである。

「広い資本主義」とは

本書の中心命題は「資本主義は経済よりも大きい何ものかである」(フレイザー、前掲書:40)。その内容は「資本主義≒経済」とかんがえる私たちへの挑戦状だ。

資本主義の中心的な特徴は経済的なものに見えるが、その経済を存立させる“非経済的(彼女でなく経済学者がそう言っている)”なものがあり、それらを含む全体がここでいわれる資本主義である。

要するに、「資本主義を経済よりも、もっと大きなシステムとして概念化する」(同上:41)ことを主張する。

4つの“非経済的”とは何か

では、“非経済的”とは何か。次の4点である。

  1. 人種差別を基礎に現在も進行中の収奪、略奪。それが、経済枠の内側で進行する搾取と合わせて展開する。
  2. 社会的再生産。家庭内での労働力の再生産のみならず、現存の労働力をケアし再生させる機能。
  3. 資源、エネルギーを供与してくれる自然、人間性を回復させる自然環境。
  4. 1〜3を資本主義に奉仕するように仕向ける、強制する権力としての政治。

以下順次解説していこう。

略奪について

『資本論』の示した資本主義の矛盾の核心は、資本による労働の搾取であった。それは剰余価値の分析に象徴される。

フレイザーは、略奪の上に搾取が乗っているとみる。現代でも、世界のいたるところで奴隷労働は見られる。アフリカや中南米の鉱山で見られる低賃金。おそらく日々の生活や命の再生産もままならない低賃金の強制労働は世界各地で目撃されている。社会主義を標榜しつつも、異民族を苛酷に扱っている国もある。

フレイザーの第二章はこうした記述で充満していて、次のように結論する。

「搾取と収奪は深くより合わさっている。」(同上:71)。

ついでに、社会学者ムーアの言葉を添える。

「マンチェスターの後ろにはミシシッピがあるのだ」(同上:71)。

これはマンチェスターは労働者からの搾取、ミシシッピは黒人奴隷からの略奪を意味している。

ケア労働

第2の「ケア労働」とは、家庭内の労働、つまり家事、育児、家庭管理のことだが、資本主義はこれらに賃金を支払わない。また、資本の再生産の条件の一つは新規の労働力の供給だが、資本主義自らはやらずに(できない!)家庭に任せてきた。資本の再生産は利潤をエンジンにして無限に展開するが、人の再生産はそうはいかない。賃金は払うが、それだけである。

また、ケア労働にもそれが家庭内でなされる限り支払わない。しかし、「ケア労働には、商品化された労働力の供給を確かなものにするという重要な役割がある」(同上:100)。

宇野理論を想起させる

解説を書いている白井聡が、フレイザーの論理はかの宇野理論を想起させるといっている(同上:290)。労働力の商品化こそ資本主義の矛盾の核心だと。

資本主義はケア労働をケアしない。だから、やがてケア労働は成り立たなくなる。資本主義は自分のしっぽに食らいついて食べてしまうウロボロスだ、というフレーズが何度も出てくる。ケア労働を価値の生まないものとして、外に置く。

経済学の視野に家庭が入ってくるのは消費の場所としてだ。でも、そこには暗黙のセー法則が前提されているから、問題なく資本が通り過ぎる通過点なのである。

ド・フリース『勤勉革命』

世帯に注目して、その役割を積極的に取り上げたのは、ヤン・ド・フリース(2008=2021)である。

産業革命が成立したのは、その前に世帯の中で勤勉革命があり消費の体制ができていたからだという、それこそ革命的な理論を、多くの実証的資料を基に示している。

自然環境

グレタさんは「大人たちは私たちの未来を盗んでいる」と怒っている。フレイザーは第4章でこの問題を扱うが、主張はかなり独特だ。

自然の定義もそうだが、自然環境を生態学的問題として扱う。そしてそれは、経済、社会、政治のすべての領域にまたがる「全般的危機」だとする。これにどう立ち向かうか?それには多くの人に共有される「対抗ヘゲモニー」(同上:138)を築くことだという。間口の狭いエコロジーでも駄目だし、地球温暖化をほかのあらゆるものに優先する切り札にする、これもよくない。

これには、一見、おやっ、と思うが、ここは注目しておきたい。なぜなら、環境保護といえば反対する人はいないのだから、それだけで切り札にしたくなる。

しかし、経済、政治、社会に関係のないように見えても、環境は資本主義の諸問題と絡み合っているのだから、全体的に取り扱うのが良い。要するに、環境問題を、「単品で振り回すな」というのである。

エコロジーも総合的にみる

エコロジーは世界的にみてもすべての政党がそのスローガンに入れている。それなのに、成果が見えないのはなぜか?フレイザーは考えたのだろう。それを、広い資本主義の生みだした問題そのものとして取り扱えていないからである。

誰もが関心があるのだから、ブロック化したヘゲモニーを形成する絶好の課題なのであるが、資本主義に内在する問題として、他の諸問題とともに取り扱うべきなのだ。

「気候変動を食い止めるためには、その原動力(濱田注:資本主義のこと)を解体しなければならない」(同上:139)。なぜなら、資本と自然の間には生態学的矛盾が内在しており、それが時代によって異なった発現形態を示す、この認識のないエコロジーは軽いから、成果が出せないのである。

時代区分

フレイザーは時代を四つに区分する。重商主義、リベラルな植民地主義(自由貿易を言い換えたもの)、国家管理型資本主義、そして現代は金融資本主義になる(同上:80-90)。各時代に矛盾があり、それぞれの様相を示し、第4章で述べた生態学的矛盾と絡み合う。

それなら、資本主義をやめてしまえばすべては解決するのか?反資本主義という旗のもとに、つまりブロック化したヘゲモニーのもとに運動を統一することで人類の未来は開けるのか?

フレイザーはここで答えを保留して、時間が迫っていることを心配している。

「体制を超えて悪化する地球温暖化は、桁違いの危機が起こる前触れだ。気候変動は歴代の資本主義体制と歴史的自然の上に容赦なく積み上がり、時限爆弾は邪悪に時を刻み、人間のー人間だけではないがー歴史の資本主義の段階に、不名誉な終わりをもたらしかねない」(同上:185)。

フレイザーは手遅れを避けることを何度も強調している。そして、環境問題を、環境という枠を超えて扱うことを繰り返す。

いかに環境を守るか

枠を超えて、これは重要だ。“環境を守る”は誰の口にも上る。「富裕層の環境主義」もある。フレイザーはそれを“高尚な環境主義”と呼んでいる。しかしそれには不満なのだろう。略奪され、搾取されている人々が自らの開放のための運動と共に展開しなければならない。

「資本主義の制度的枠組みと構造的な力学を温存したままでも、『環境』は適切に保護されうる」(同上:190)という考え方はかなり怪しいのである。

こうした言い方の根底には、フレイザーが従来の社会民主主義をきっぱりと否定する態度を見て取れる。脱成長だけを主張し、資本主義を廃止する必要はない、という先進国に蔓延している日和見主義とは、とっくに絶縁しているようだ。資本との対決を回避するな!

政治について

資本主義はそれ自体では立てない。根源にある私的所有制度を守るには法律が必要だし、それを支えるのは公的権力だ。貨幣・紙幣を発行するのは中央銀行か国家である。

経済学の昔の名前は政治経済学であった。フレイザーは、経済学に新しい国家の役割を付与する。「広い資本主義」を想定すれば、それを支えるものは、略奪、世帯のケア労働、自然の持つ資源と人を癒す環境であるが、これらの要素がうまく資本に奉仕するように調整するのも国家の仕事になる。構造主義者のいう調整の範囲と幅は広がっているわけだ。これが第5章のテーマである。

民主主義の危機

そこで民主主義が登場する。資本主義はかなり長い間、これを有力なツールとして使ってきた。社会主義が現存する時代は、それへの対抗の道具でもあった。しかし、世界のあちこちでその民主主義が危機に瀕している。

フレイザーは、政治も狭く考えてはいけないと強調する。

「今日の民主主義の疲弊は社会秩序をそっくりそのまま飲み込んでいる全般的危機の紛れもない政治的要素だ」(同上:199)。

ここで、かのシュトレークを引用して、「民主主義が多くの国で敗北したのと、グローバル金融資本が世界を支配し始めたのは、同じ時期だった」とみている(同上:199)。

複雑な絡み合い

フレイザーは民主主義の危機が、先に述べた四つの時代に様相を変えながら継承され、金融資本の時代には全般的危機の主要現象に成長し、このため自らを守り育てた公的権力を不安定にすると主張する。そして、この政治的不安定を自らの力で解決できなくなっている。

問題は絡み合っている。その解決とりわけ全般的解決は途方もなく長い道のりになる。そういうことなら、希望は大きくないように見えるが、そうではない。問題が社会化し、多くの人々に共有されるから、逆に可能性がある。経済の中にある反資本主義、つまり労働運動だけでなく、一見反資本主義には見えない様々な勢力が連合できるのである。

フレイザーは、この問題を最終章で述べることになる。しかも、それに新社会主義という名前を与えて。それを検討するのは次回になるが、それに行く前に、民主主義についてみておこう。

民主主義と資本主義

「資本主義社会では経済的権力と政治的権力は分離している」(同上:207)。

経済の領域を律するのは主に市場である。市場の支配力は資本主義の拡大とともに大きくなる。逆に言うと、政治に残された部分は狭くなる。つまり、民主主義が機能する領域は縮小する。

まさに、一時期、言葉だけが流行したが、それは小さな国家である。市場のことは市場が決める。国家は、立ち入り禁止だ。しかしここに重大な副作用が起きた。

「集団的に意思決定する私たちの能力を奪い取る」(同上:208)。

そこで結論はこうなる。資本に本来備わった構造によって、資本主義は基本的に反民主主義だ。日本でも、新自由主義が浸透してきた時期と民主主義の後退はほぼ一致している。投票率の低下(特に都市部)、野党が後退(日本社会党の消滅)、ミニ与党の乱立、それらの右傾化などがあげられる。

国会での与野党対決、しばしば起きた乱闘⇒強行採決の光景は昔物語だ。国の大事なことを、民主的に討議して決める必要はなくなった。市場が決めればよいと多くの人が思い始めている。政治はまさに、市場に立ち入り禁止、それに慣れた私たちは歌を忘れたカナリアである。

公的権力の在り方

資本主義における政府は、主演ではなく助演であるといったのはラワースだが、今ではそれすら怪しくなった。IMFなどの国際機関の統制が強まったことも各国(アメリカは除く)の政府を弱めた。フレイザーは2015年のギリシャの例を挙げている。国民投票で決まったことがEUからの圧力で覆った。

広い資本主義では、様々な分野に現れた危機は単独で存在するのではなく全体の一部としてある。これがフレイザーの示す基本命題だが、続けて重要なことを述べる。危機が現実化するのはどういう場合か?

危機の構造

「彼らが体験している緊急の課題が既存の秩序があるのにもかかわらず、まさにその秩序を原因として生じ、しかもその秩序では解決できないと直感的に感じた時である。そして、必要となる人数でその秩序を集団行動で転換でき、また転換しなければならないと決意した時、ようやく、客観的な窮地は主観的な声を上げる」(同上:223 若干、訳文を直した)。

危機は客観的に存在し、それが進行するようになっても、まだ真の危機ではない。それに対抗するヘゲモニーが主観的に意識されてこそ、そうなるのである。実践を意識した活動する政治学者ならではの言明だ。

カーテンの背後にいるもの

もっとも、主観的に打ち立てられるヘゲモニーが、必ずしも進歩の方向性を持っているとは限らない。フレイザーは、ここでイギリスのブレエグジットや、アメリカのトランプ出現を意識しているようだ。

反金融資本を掲げるヘゲモニーが、多くの場合ポピュリズムか極右に取り込まれてしまった。舞台のカーテンの背後にいるもの、真にことを操っているものを見失ってはならないと警告する。ポピュリズムは資本主義の巧みな演出に騙されているのだ。

「カーテンの奥に隠された権力の正体を暴くことができない」(同上:230)。

実際、カーテンの前の左翼風の勢力は口々に”解放“を叫ぶのだが、むなしく響くだけである。その挙句、諸勢力がカーテンの前の位置をめぐって争い始める。

フレイザーのいうインチキな争いに人々が巻き込まれ、それをいいことに「カーテンの奥の黒幕は大笑いしながら銀行へ向かっている」(同上:231)。

で、どうなる?

では、どうなるのだ? シュトレークと同じように、ヘゲモニーのブロックが形成されるまでの空白期を覚悟している。この点はグラムシとも共通している。「それまでは、金融資本主義の断末魔の叫びと全般的危機という、多くの病的な兆候の中で生きる」ことになる。

フレイザーを代弁しておきたい。社会科学の任務は、現代社会の構造をとらえる、単にそうするのではなく実践を考慮して。できたら学問的成果を携えてプラン作成に参加する。それは政治家の仕事だが、何等か形で協力する。今、まさにそれが求められている。この事態を放置すれば、社会科学は無用の存在になる。

小括

「広い資本主義」を構想する。それは、経済学の無力化への反省から、そして経済学帝国主義(唯物論、下部構造論)への反発から生まれた構想だが、十分に検討に値する。

現代資本主義の諸矛盾は、経済だけでなく、社会、政治の広い分野で発現している。自然破壊もその一つであり、根源は一つで、ただ複雑に絡み合っている。単品で取り上げて対応しても解決にはならない。複雑であるからこそ社会科学の出番もある。

細分化しすぎた現状から脱却して、総合科学の体裁を取り戻す。また、複雑に絡み合ってるからこそ、多くの様々な立場の人々が統一できるプラットフォームでありうるし、反資本主義の統一したヘゲモニーが確立できる。

フレイザーは、独特の歴史観を提示する。”線引き”という独特の理論的ツールもある。本の最後で、彼女の構想、新しい社会主義、が展望される。これらについては、次回に検討する。

電子ブック『The Next』

私は、アゴラの15回の連載で資本主義の構造を示し、人類の体制としての限界を示した。これらを取りまとめ、Amazonから電子版を先ごろ出版した。

今後の課題としているのは、実践論だ。誰がどうやって資本主義に引導を渡すのか。マルクスの時代とは違う。資本主義は自動的には倒れない。むしろその状況が悪くなるだけである。なんとかするなら、今なのだが、そこで問題は、主体、だ。それを考えるうえで、広い資本主義は大いに参考になる。スーザン・ストレンジ、そしてナンシー・フレイザー、いずれも優れた政治学者だ。

(次回につづく)

 

【参照文献】

  • フレイザー,N.,2022=2023, 江口泰子訳『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』筑摩書房
  • ヤン・ド・フリ-ス,2008=2021,吉田敬・東風谷太一訳『勤勉革命』筑摩書房
  • ラワース,K.,2017=2021,黒輪篤嗣訳『ドーナツ経済』河出書房新社