岸田文雄首相は3月27日に、憲法改正による緊急事態条項の新設に関し「首都で大きな災害が起きた場合、国会の権能を維持できるかどうかは平素から考えておくべき課題だ」と語りました。
しかし総裁任期が迫る中、改憲は難しそうです。
下記の記事によると、衆院憲法審査会は2023年6月に緊急事態条項に関する各会派の立場をまとめた論点整理にこぎ着けたものの、その後の与野党協議に具体的な進展は見られないとのことです。
岸田首相の任期内に改憲はないかもしれませんが、緊急時の権力については、個人の自由を重視する人にとっても、平時に考えておくことが重要です。緊急時には、そのようなことをゆっくり考える余裕はありません。
コロナ禍では何度も「緊急事態宣言」が発令されました。
当時のことを思い出しながら読んでいただけると嬉しいです。
特に気をつけないといけないのは、自由主義者でオーストリア学派の経済学者であるマレー・N・ロスバードが言うように「全体主義が醜い頭を上げるときには常に『緊急事態』を言い訳にする」ということです。
そして、「権力を握った人は、自分からその権力を手放すことはない」ということも重要な点です。
緊急事態だと判断し緊急事態宣言を発令する人(機関・組織)が、緊急時に権力を行使する人(機関・組織)と同じ場合、個人の自由にとって非常に危険になります。
権力を握った人は、緊急事態が続く限り権力を行使できるので、緊急事態を引き延ばそうとするだろうと考えられるからです。
今回はそれらに関連して、アメリカの自由主義系のシンクタンク「ミーゼス研究所」のHPの掲載の論文を一部要約して紹介します。
「Hayek Explains Emergency Powers(ハイエク、緊急時の権限について語る)」というRyan McMaken氏の論文で、2024年3月5日に掲載されたものです。
アメリカの話ですが、日本でも同様だと思います。
※太字や(※)注は、筆者です。
Hayek Explains Emergency Powers(ハイエク、緊急時の権限について語る)
支配階級の本性は、緊急時に明らかになる傾向があります。
さらに、「緊急事態」と宣言された時は、国家権力に対する通常の憲法上の制限(例えば「三権分立」など)では、政権権力を実際に抑制することはほとんどできない傾向があることが明らかになっています。
もちろん、すべての憲法上の制度が、このような状況において同じように悪いというわけではありません。
しかし、コロナのパニックとそれに続く危機によって、緊急時における州の権限を制限することを目的とするならば、ほとんどの連邦政府、州政府、地方政府の制度が非常にお粗末な構造であることが示されました。
具体的には、米国では連邦政府と州政府は、緊急事態を宣言する機関と緊急時に権力を行使する機関が同じになるように組織されています。
例えば、コロナ危機の時の展開では、緊急事態を宣言する権限を持ったのは州知事であり、緊急事態の間に強化された政治的権力を享受したのは、知事に報告する州官僚でした。
その結果、緊急事態を宣言したのも、緊急事態が続く限り絶大な権力を行使することになったのも、まったく同じ人物であることが多かったのです。
ほとんどの州では、知事とその側近がその役割を担っていました。
緊急事態の終結、ひいては行政府が享受していた政令による支配の終結には、しばしば州議会の高度な集団行動が必要とされました。
ほとんどの州では、緊急事態を終結させるには、最低でも議会の少なくとも一院が緊急事態を終結させる決議を採択する必要があります。ほとんどの州では、 両院がこの決議を採択する必要があります。
州によっては、議会が会期外である場合、緊急事態の終結を議会が決議するためには、知事が議会を招集しなければならなりません。言うまでもないことですが、知事がこのようなことをする理由はありません。
さらに、ほとんどの州では、知事は議会の承認なしに緊急事態宣言を何度も、場合によっては 永久に更新することができるのです。
緊急事態の終結のためには、緊急事態宣言に反対する議員を集め、決議案を採決するための、議会側の重要な組織化と集団行動が必要となります。
一方、緊急事態宣言は、一人の人間の判断だけで可能な傾向があります。
言い換えれば、この制度は、緊急事態令の制定と延長に大きく有利に偏っている一方で、緊急事態令を廃止しようとする努力には不利に偏っているのです。
F.A.ハイエクは、『法・立法・自由 』の第3巻で、アメリカの制度がこうした「緊急事態」に対していかに意味のあるチェックを提供できていないかを示す一例として、このような制度である必要はないことを示しています。
緊急事態を宣言する人々が、緊急時に大きな権力を享受する人々と同じでなければならない理由はありません。
この問題に関するハイエクの思想をより深く理解するために、以下に長い文章を引用します。
ハイエクの著作の多くがそうであったように、この著作もまた、モリナーリやロスバードのような急進的なものではなく、極めて穏健なものです。
とはいえ、ハイエクでさえ、緊急事態の権限や緊急事態宣言の権限を単一の機関に集中させることは危険だと考えていたという事実は、この点において、ほとんどのアメリカ政府がいかに的外れであるかを物語っています。
※以下、ハイエクの引用です。
自由社会の基本原則である、「政府の強制力は、公正な行動に関する普遍的な規則の実施に制限され、特定の目的の達成のために使用することはできない」という原則は、そのような社会の正常な機能にとって不可欠であるにもかかわらず、長期的な秩序の維持自体が脅かされる場合には、一時的に中断しなければならないことがある。
通常、個人は自分自身の具体的な目的にのみ関心を持ち、それを追求することで共通の福祉に最もよく貢献する必要があるが、一時的に、全体的な秩序の維持が最優先の共通目的となり、その結果、地域的または国家的規模での自発的な秩序が、一時的に組織化されなければならない状況が生じることがある。
外敵の脅威が迫ったとき、反乱や無法な暴力が勃発したとき、あるいは天変地異によって、どんな手段を使っても迅速な行動が必要とされるとき、普段は誰も持っていない強制的な組織化の権限を、誰かに与えなければならない。
死の危険から逃れた動物のように、社会はこのような状況下では、長期的には存続がかかっている重要な機能さえも、滅亡を免れるためには一時的に停止しなければならないかもしれない。
このような緊急時の権力が、絶対的な必要性が去った後も保持される危険性を生じさせることなく認められる条件は、憲法が決定しなければならない最も困難で重要な点のひとつである。
「緊急事態」は常に、個人の自由の保障が侵食される口実となってきた。
そして、いったん自由の保障が停止されれば、そのような緊急権力を引き受けた者が、緊急事態が持続するように仕向けることは難しくない。
実際、独裁的な権力を行使することでしか満たすことのできない、重要な集団が感じているあらゆるニーズが緊急事態を構成するのであれば、あらゆる状況が緊急事態なのである。
緊急事態を宣言し、この根拠に基づいて憲法のあらゆる部分を停止する権力を持つ者こそが真の主権者である、ともっともらしく主張されてきた。
緊急事態を宣言することで、そのような緊急権力を自らに課すことができる個人や団体があれば、それは十分に正しいように思われる。
しかし、「緊急事態を宣言する権限」と「緊急権を行使する権限」を同じ機関が保有する必要は決してない。
緊急事態の権限の乱用に対する最善の予防策は、緊急事態を宣言できる当局が、それによって通常保有している権限を放棄し、他の機関に付与した緊急事態の権限をいつでも取り消す権利のみを保持するようにすることだと思われる。
提案されている計画では、立法議会がその権限の一部を政府に委譲するだけでなく、通常時は誰も持っていない権限を政府に与える必要があることは明らかである。
そのためには、立法議会の緊急委員会を常設し、いつでもすぐにアクセスできるようにしなければならない。この委員会は、議会全体が召集されるまでの間、限定的な非常事態権限を付与する権利を有し、その委員会自身が、政府に付与する非常事態権限の範囲と期間を決定しなければならない。
緊急事態の存在を確認する限り、政府に与えられた権限の範囲内で政府がとった措置は、平時には誰も発令する権限を持たないような特定の人物に対する具体的な命令も含め、完全に効力を持つ。
しかし、立法議会はいつでも、与えられた権限を取り消したり制限したりすることができ、非常事態の終了後は、政府によって宣言された措置を確認したり取り消したりすることができる。
※以上で、ハイエクの引用を終わります。
もちろん、このケースにおける濫用の問題を確実に解決できるわけではありません。
緊急事態を宣言した機関と、緊急事態の権限を享受している機関のエリートたちが、イデオロギー的・物質的な利害を共有しているか、ほぼ同じである可能性は十分にあります。この場合、これらの権限を2つの別々の機関に分散させても、大きな違いは生じないでしょう。
経済的、地理的、イデオロギー的、宗教的、民族的、言語的に対立する2つの政治的エリートグループの間で権限を分離することだけが、この問題を解決する可能性があります。
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最後まで読んでくださりありがとうございました。
日本でも、コロナのパンデミックの際に、緊急事態宣言を出した人(機関)と、その緊急事態宣言下で権力を増した人たち(機関)は、同じだったのではないでしょうか?
今後、再度の感染症の大流行や戦争勃発などの「緊急事態」の対応について検討する際、このハイエクの議論は非常に重要な観点です。
そして、個人の自由を守るためにも、平時にこそしっかり議論すべきことだと思います。
編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2024年4月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。