人物ということ

アゴラにある記事『40代以降は「かっこいい人」の基準が変わる』(23年12月29日)は、冒頭次のような言葉で始められます――人間は年をとるごとに価値観はドンドン変化する。生まれ持った性格や気質はそのままでも、価値観の変化で思考や行動は変わってしまう。(中略)10代は学業、20代や30代は仕事で活躍する人や影響力を持つ人に憧れる傾向が強いと思うが、40代以降はそこからまた変化すると思うのだ。

そして筆者は「あくまで内面の精神世界に限定した話」として、「挑戦する人/元気な人/利他的精神/許す器」の4点をかっこ好い基準に挙げ、『40代以降はますます「人間の魅力は中身」になっていくと思うのだ』と結んでいます。私見を申し上げれば、かっこ好いという言葉は人の評価を表わす言葉としては適切でなく、「人物」という言葉を使うべきだと思います。

私自身「これは人物だなぁ」と思うことはありますが、「あの人かっこ好い」と思うようなことはありません。また同時に、「あの人かっこ悪い」というふうに思えることもありません。先ず、人は外見で判断すべきものではないのです。孔子でさえ澹台滅明(たんだいめつめい)という人物が入門して来た時、余りにも容貌が醜かったため「大した男ではなかろう」と思っていたら、実は大人物であったという失敗談が『論語』にもある位です。風貌での人物判断には必ず失敗があります。若かろうが年寄りだろうが、我々は常々その人の内面を見て人物を評価して行く、といったことが必要です。その場合、人物の鑑別の仕方として、例えば呂新吾の『呻吟語』の一節、「四看(しかん)」ということが大事になります。

第一に、「大事難事に担当を看る」。事が起こればその担当官の問題への対応能力を見るということ、併せて仮にそのような事において自分自身は如何に処するかを常に主体的に考えるということです。第二に、「逆境順境に襟度を看る」。襟度の「襟」は「心」を指し「度量の深さを見る」といったことです。世の中は万物全て平衡の理に従って動いており、良い時・悪い時に襟度を見ると言っています。第三に、「臨喜臨怒に涵養を看る」。喜びに臨んだ時に恬淡(てんたん)としているか、怒りに臨んだ時に悠揚(ゆうよう)としているか、といったところに涵養を見ると述べています。第四に、「群行群止に識見を看る」。その人が大勢の人(…群行群止)の中で大衆的愚昧を同じようにしているか、それとも識見ある言動をとっているかを見、人を見抜いて行くということです。

人を見分けるは時間が掛かるものですが、時の経過とその人に関わる出来事は人の本質的な部分を露わにします。内面が素晴らしい人の言動あるいは立ち居振る舞いには、様々あらわれてきます。如何なる時も余り喜怒哀楽でバタバタとせずに、落ち着いて淡々としているような人物に対しては、外見上見る目もまた変わってくることでしょう。人物というのは、その人の生き方に依るものです。私は、その人の君子としての歩み如何で、人物としての評価が決すると思っています。

最後に、安岡正篤著『経世瑣言(総編)』より次の言を御紹介しておきます。我々凡人は人物たるべく、日常生活の中で、日々自分の為すべき事柄に一所懸命取り組みながら、なお学び続け、正しい道を歩んで行こうと努めねばならないのです――あの人は風韻がある、風格がある、というのはその人独特の一種の芸術的存在になって来ることであります。元気というものから志気となり、胆識となり、気節となり、器量となり、人間の造詣(ぞうけい)、薀蓄(うんちく)となり、それが独特の情操風格を帯びて来る。これ等が人物たるの看過することの出来ない、没却することの出来ない、根本問題中の根本問題であります。そういうものを備えて来なければ人物とは云えぬ。人物を練る、人物を養うということは、そういうことを練ることです。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年4月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。