フレーザーの考える「資本主義」私なりに解釈すると次のようになる。
中心の柱が立っている。しかし、これだけでは支えきれない、それを支えるように四本の副柱が立っている。中心は経済領域とよばれている。中心柱にはその本質を示す言葉が書かれていた。それはすぐには読めず、『資本論』という彫刻刀をつかって切り出したら、そこには搾取と書いてあった。
世の中には資本家と労働者がいて、前者が後者を雇用し賃金を払う。賃金は労働者が生活を続けるのに十分ではあるがそれ以上ではない。労働者は賃金分を超えて働くが、そこで得られた収益は資本家のものになる。これだけ聞かされると、特に変だとも思わないが、この関係の中に資本主義の秘密があるとマルクスは気がついた。といっても、それなりの解説が必要だが、それは以下に示した。
(濱田康行「協同組合理念と剰余価値-労使間のアコードを求めてー(上)、(下)」『共済と保険』2016年11、12月号)
なぜ、労働者は賃金分を超えて働くのか?それは、資本家の決めた決まりがあり、それを、雇われるときに承認しているし、決まりを破れば暴力もあるからである。もっと決定的なのは、労働者がほかの方法では食べていけない、雇われる以外に生きていけないからである。だから、資本主義の前提にそういう人々がかなりの数形成されていなければならないことになる。これが、後から述べる原始的蓄積だ。ついでに言えば、労働者である彼、彼女は勤勉なのである。これも、隠された前提である。だから、暴力はめったに行使されなかった。植民地は別である。
世界は労働によって作られた。消費する以上に生産したから財産を残せたのである。生産活動から剰余がる生まれることは昔からわかっていた。常識的ではないのは、この剰余が資本家のものになるという点だけだ。
賃金の未払い分というのは一方的な表現かもしれない。賃金は支払われているのだ。この点が、のちに述べる収奪・略奪との違いである。
収奪
フレーザーは搾取と刻まれた柱のすぐ隣に収奪と書いてある副の柱が立っていると主張する。
では、両者の違いはなにか。
「収奪では・・・ほとんど、あるいはまったく支払いもせずに他者の資産を暴力的に取り上げる」(フレーザー同上書、P.37)
普通の理解も示しておこう。歴史の中で収奪、略奪があったことは否定しない。収奪で得た、蓄積した富で事業を開始する。つまり資本家となるのだが、そうなれば決められた賃金を払うことになる。つまり収奪と暴力から卒業するのである。だから、資本家は紳士然とふるまえる。先々代のころはそうだったかもしれないが、今は違うと。
フレーザーの主張はまったく反対だ。
彼女は収奪を搾取が成り立つ条件とし、前回も引用したように「マンチェスターの後ろにはミシシッピがある。」を強調する(P.71)(マンチェスターは資本主義の生まれたところで、ここでは搾取を、ミシシッピはアメリカの奴隷制、収奪を表す)。
資本の起源
雪だるまを作るには芯を作る。自分の手で雪を集め固めて芯を作ってから雪の十分積もった坂道にころがす。たとえの後段はともかく、前段は町の多くの実業家には当てはまる。しかし、18世紀のイギリスでは資本はある短い期間に大量に発生し、しかも最初の芯は最初からかなり大きかった(綿工業)。
それはどうやってできたのか? これが、本源的蓄積論のテーマである。
資本が利潤を求めて無限の循環運動をする。得られた利潤が再び投資に回り資本は成長する。それはわかった。では、最初の一回目の資本はどうやってできたのだ?
それは歴史に聞くよりない。理論の本である『資本論』に書かれた歴史の記述だ。第一巻の8編がそれだ。ここでマルクスは数々の実例を示すが、よく知られているのは、イギリスの、“囲い込み運動”の例である。農民に火をつけて追い払うなど様々な暴力が行使されたから、マルクスは資本は”血だらけ“で歴史に現れたと表現している。
しかし、この後、資本は“血だらけ”を卒業した、というのが通常の理解だ。雪だるまの芯を自分で、夫婦でコツコツ作った人たちもいたから、血だらけの話はさらに通用しなくなった。
資本家は質素である、禁欲ができる人、勤勉で計画性がある人、などなど新しいイメージが登場する。
こういうイメージにフレーザーは敢然と挑戦する。もちろん、マクロの話として。そして、優れて現代の話として。彼女は、収奪は常にあり資本はいつも血だらけだという。実は、 ハーベイもそうだ(D.Harvey、2020=2023、大屋定晴監訳、『反資本主義』、作品社)
ハーベイは第10章に「本源的蓄積」、第11章に「略奪による蓄積」をそれぞれ配置し、詳しく論じている。本源的蓄積は資本主義の初期だけに展開するのではない、今日もなお変わらず続いている(同上、P.180)。それは多くの場合、不法行為であるが、いわば資本の原罪なのであり、絶えず付きまとってくる。
ハーベイのような大家の言葉だが、やや納得しがたい。そう思うのは、私たちが日本という特別な国にいるからである。この国の資本と近隣の諸国の関係をよく見てないから、また、確かに日本には松下翁のような経営者が多かったからでもある。資本家の団体である経団連などを観察してみてわかるのは、だいぶ劣化したとは言え、その豊かな知識と見識である。
日本では、とっくに“血だらけの時代”は卒業しているから、国のかじ取りは資本家集団に任せてよい、多くの人はそう思うのである。様々なスキャンダルにもかかわらず保守勢力が人々の支持を得ているのは、こういう背景もある。でも、ハーベイは言う。それは世界を見てないから、国内でも隠された秘められた部分に目をつむっているからだと。
妥当と思われる賃金を払って搾取の世界だけで調和する、それが成立しないことを主張したのは、20世紀初頭に活躍したドイツ社会民主党の指導者、ローザ・ルクセンブルクである。彼女は蓄積論上の難点を、実現問題として提起した。拡大再生産で拡大した分をだれが買うのか?(ローザ・ルクセンブルク、1913=2011-2017、小林勝訳、『資本蓄積論』、御茶の水書房)
最低賃金の労働者? 彼らの数はすぐには増えないし、一人一人に余計に消費する余裕もない。ハーベイは解説する。
「ルクセンブルクが描いたのは、周辺部における本源的蓄積の継続を目的とする植民地支配体制である。本源的蓄積は、資本主義の運動に全周辺部が吸収されるまで無限に続く。」(ハーベイ、P.194)
ヨーロッパの先進国がアフリカや東南アジア諸国で展開した(している)、鉱山、現地工場、プランテーションで働く労働者に何が起こっているか? そして日本国内で時折報告されるブラック企業の実態などを聞けば、ハーベイの言い分は否定できない。
フレーザーはさらに進む。収奪は継続しているだけではない。それが搾取を支えている、しかも二重の意味で。
最初の一つはローザ・ルクセンブルクが提起したことだ。世界のどこかで、本源的蓄積が行われ、“自由“な労働者が生み出されている、つまり搾取の対象が再生産されている。
もう一つはフレーザーの独自の主張だ。彼女は先進国で下がり続ける利潤率に注目する。利潤率を上げようとしても、労働者の抵抗で賃金は下げられず、搾取はもはや限界だ。経済の領域にある搾取の機構だけではもはや利潤の高さは維持できない。多くの先進国の状況が世界市場に、途上国に反映する。この構図は国内でも生じる。
ハーベイは言う。
「現代資本主義は、生産における生きた労働の搾取による蓄積ではなく略奪による蓄積にますます依存しつつある。」(ハーベイ、P.197)
信用制度は、資本の運動の資本の運動の効率化のためにあるのだが(『The NEXT』の第5章)、今度は略奪の促進に貢献する。略奪の矛先が企業そのものに向いてくると信用の役割は俄然大きくなる。敗退しそうな会社を買う、ローン返済ができず手放した住宅を大量に買う。そう、あのブラックストーンのように(注1)。人々が苦しむ危機が彼らの金儲けの絶好のチャンスになる。
(注1)この会社は、未公開株売買では世界最大級である。もちろん日本にも進出している。
「ブラックストーンは短期間に、世界一とは言わないまでも、アメリカ一の大地主になった。同社は現在、何千もの住宅を所有して貸し出すことで、高い利潤率を確保している」(ハーベイ、P.188)
線引き、限界
フレーザーは搾取と略奪の対象者を分ける線引きがあるという。この線はおおかた人種差別のそれと重なっている。資本主義は人種差別からも卒業できない。それには暴力が伴うから民主主義を標榜するのは難しい。しかし、この利益の源泉も、世界各地での反差別意識の向上、それへの規制の強化で、継続が怪しいのである。
植民地も第二次世界大戦後、ほとんど消滅した。社会主義が失敗して資本主義の市場に組み込まれたので、助かったかに見えたが、それも一時的だった。メインの領域の利益を維持するために副の柱の領域での略奪を強化すると、これ自体が弱っていく。これが彼女の言う“共食い”である。自分のしっぽを食べてしまうウロボロスだ。
副柱
支えとして機能するのはあと三本ある。一本はこれまで見た収奪の柱。あとは、
① 労働力の再生産、それにかかわるケア労働(ほとんどが女性に任される)
② 環境、自然、エネルギー。
両者は資本にとって費用なのに満足に支払わない。なぜそうかといえば、メインの領域の”利潤第一“があるからだ。人の再生産は家庭に任せ、自然はタダで壊しても補填・修復しないのである。
③ 公共財。これには、法的秩序、反乱を鎮圧する力、インフラ、マネーサプライ、その他の危機対応メカニズムが含まれる。(フレーザー、P.243)
特に強調しているのはケア労働なので引用する。
「生産的とみなされている賃金労働も、そこから引き出される剰余価値も、ケア労働なしには成り立たない。家事、子育て、学校活動、愛情のこもったケア、それらに関連するさまざまな労働があってこそだ。資本主義社会の経済活動にとって、社会的再生産は必須の前提条件なのだ。」(フレーザー、P.105)
現在、日本で話題になっている少子化現象の背後にケア労働の危機があるのは間違いない。
対抗ヘゲモニー
副の柱はそれぞれ危機なのだが、一本一本に目を奪われてはいけない。
よく見られるのが、環境だけにとらわれてはいけない。“環境守れ”は反資本主義の部分スローガンである。資本主義は生態学的矛盾を内包しており、それが発現したのが環境問題だ。だから、「資本を手なずければ地球は救える。だから、資本主義を廃止する必要はない」という富裕層の、環境主義に惑わされてはならない。
広い社会主義
では、どうするのか? 第6章がこの問いに答えている。
広い概念でとらえた資本主義に対峙するのは広い社会主義だ。生産過程の中での労働者への搾取の廃止だけでなく、四本の副の柱の立て直しという課題が加わる。
解説が必要だ。フレーザーはここで社会主義という言葉を使っている。でも、それが「バツの悪いもの…忌むべき失敗、過去の遺物」(フレーザー、P.228)であることは十分認識している。
彼女は、アメリカ民主主義の上に構築される新たな社会主義をイメージしている。それは日本の知識人が持っている社会主義とは違う、解放された概念である。アメリカではバーニー・サンダースのような人まで社会主義者なのだ。彼は自らそう名乗って大統領候補として戦い、かなりの支持を集めた。
新しい社会主義は「生産手段の社会的所有だけでは十分ではない」(フレーザー、P.239)、既存の社会主義に何かを付け加えるのではなく、全体が新しいのである。先の引用に続けて言う。
「私たちの時代の社会主義は、資本による賃金労働の搾取だけを克服すればいいのではない。無償のケア労働、公的権力、人種差別されるものや、自然から収奪した富に、ただ乗りすることも克服しなければならない。」(P.239)
大がかりな仕事
広い概念でとらえたものを実現するとなれば、当然ながら「きわめて大掛かりな仕事になり、そのためにはおびただしい人たちの協力が必要になる。」(フレーザー、P.253)。
舞台は主柱の内部、つまり労働運動だけではない。ここで、示唆的な提案をする。
一つは、資本主義から受け継ぐもの、すなわち、制度,装置を意識する。これは、『The Next』で私が強調したことでもある。
「私たちは資本主義社会から受け継ぐ制度の境界を新たに思い描くことができ、また思いつくべきである」(P.255)
二つ目。それは優先順位。「人々の養育、自然の保護、民主的な自由を社会の再優先事項と位置つけ、効率や成長よりも重視する」(P.255)、そして社会の将来を決める重大な決定、すなわち制度設計のプロセスを民主的に「私たちが決めるべきだ。」と結論する。
ドメインの変更は自分たちの手で、例えば社会的余剰の使い方。それを必ず成長に回さなくてもよい。つまり成長を非制度化するのだ。
市場について
私(濱田)は、今のところ市場に勝る価格の決定機構はないので、『The NEXT』でも、それは残すことになるとした。
フレーザーは同意見で、さらに進め言う。市場にはヒエラルキーがある。最上位から最下位、そして両者の中間に分ける。最上位では社会の余剰の処分を決める。国の方向を決めるとき市場の判断を頼りにしない。同じことを最下位でも主張する。
ここは基本ニーズにこたえるところで、「雨露をしのぐ家、衣服、食料、教育、医療、交通、通信、エネルギー、余暇、清潔な飲み水、汚染されていない大気」(P.261)は市場に任せない。人々の基本ニーズを満たす使用価値は商品であってはならない。
さて、中間の市場とは何か? それは様々な可能性を持つ実験場で、いわゆる市場が成立しうる場所である。社会主義者はこのことに心配を寄せるかもしれないがその必要はない。というのは、「最上位と最下位が社会化されて脱商品化すれば、中間の市場の機能と役割は変化する」(P.262)からである。
本稿の最後に、フレーザーを参考にしたら、日本の将来について何が言えるかを、考えておきたい。
日本の新しい社会主義
ソ連型の社会主義は早産であった。合田寛は、こう言い放ってから次のように言う。
21世紀の社会主義は、資本主義の胎内で十分に成熟した胎児が、新たな生命を吹き込まれ、民主主義のゆりかごで育まれる「新しい社会主義である」。(合田寛、「新しい社会主義の課題」、『政経研究時報』、26巻4号、2024年3月)
産婦人科の医者が聞いたら首をかしげる文章だが、気持ちは伝わる。
合田の考える基本フレームワークは次の四つの要素からなる。
① 生産手段の社会化
② 労働者の参加
③ 市場機能の活用
④ 政府の積極的な役割
①は社会主義を主張する人に共通する。②で合田はドイツの労働者参加を例に挙げる。
しかし、そうなるためには労働側に相当な知識と経験がいる。経営は一種の技術であり、経営者は専門家である。それに交じって意見を述べる。企業はグローバル競争にさらされているから、なおさら難しくなる。
③の市場機能を残す、利用することには、合田は注文を付けている。
「市場社会主義における市場は、資本主義的市場経済とは異なり、それを社会主義にふさわしく再編した市場である」。
“ふさわしい”とはどういう状態なのか、どう再編成するのか? そこを聞いてみたい。
『The Next』で紹介したコルネオとか、ここで検討したフレーザーは、具体的に提案している。現代の株式市場でビッグスリーと呼ばれる機関投資家の勢力が大きいこと、日本でもGPIF、そして知らないうちに日本銀行が最大株主になったことが、大きな問題であることは、私も含めて大方の論者が指摘している(『The NEXT』、第9章)。
悩ましいことだが、公的所有がして私的所有より良いということは、マルクスの命題にもかかわらず、歴史上、これまでは証明されていない。
④も行き過ぎれば、ソ連型に戻ってしまう危険がある。現在でも、政府は大資本の危機を救うほど強力なのである。政府機能の、どこを削り、どこを拡大するか、統治はかくあるべしという哲学を示して議論する必要があるだろう。
■