中国の習近平国家主席とロシアのプーチン大統領が北京で発した共同声明を読むと、両者が、国際秩序の改編を強く意識していることがわかる。「多元的な(multipolar)」な国際秩序の構築を目指し、覇権主義にもとづく介入主義を許さない、という、両者の世界観が確認されている。
もちろん、覇権主義に対抗して多元主義を目指す、という立場それ自体は、これまで両国が一貫して主張してきたものだろう。だがウクライナやガザで、あるいはアフリカのサヘルで、国際政治の構造転換を反映した危機が進行中だ。それを考えると、親密さを強調しながら、北京で、両者があらためてこの立場を強調したことの象徴的意味は大きい。
冷戦終焉後、世界は「自由民主主義の勝利」によって特徴づけられる「歴史の終わり」に到達した、といった議論が華やかに行われた。現在でも、アメリカのバイデン政権は、「民主主義vs.権威主義」の世界観にそって、「ルールに基づいた国際秩序」の概念を強調している。
しかしアメリカの姿勢は、ガザ危機をめぐって、「二重基準」に基づく「偽善」だと厳しく批判されている。ガザ危機をめぐる国連安全保障理事会や総会での加盟国の投票行動では、アメリカが孤立する傾向が顕著になっている。他の問題でも同じ傾向が見られる。二年前は国連加盟国の大多数がウクライナに同情的だったが、今やそのような雰囲気は過去のものとなっている。
かつて冷戦終焉が終焉した30年前、アメリカの力は巨大だった。1990年代のインターネット革命・軍事革命なども主導して、GDPの世界シェア率も回復し、21世紀に入る頃には、アメリカ「帝国」の「単独主義」が大きな問題だとされた。
1990年代にボスニア・ヘルツェゴビナやコソボをめぐって、人道的惨禍を止めるためにアメリカとその同盟国が軍事介入を行う際には、手続き的に国際法規範と、人道主義の原則の関係が問題になった。しかし、そんなときも、アメリカの側に、道徳的権威が、相当にある、と想定されていた。
隔世の感がある。
対テロ戦争や国内騒乱で、アメリカは、疲弊した。今や、かつて存在していた威信を乱暴に振り回すだけで、内実が伴わない無責任な態度が目立ちすぎている。
この事情について、思想的な分析を加えてみよう。
19世紀末ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、『道徳の系譜』において、強者の道徳と弱者の道徳、という二つの異なる道徳について、洞察を加えている。
高貴で強い者は、自らを良い(gut)ものと規定し、それと反対にあるものを悪い(schlecht)ものと考える。卑しく弱い者は、自らの反対にあるものを悪い(böse)ものと規定し、その対極にある自らが良いものと考える。
ニーチェによれば、同じ「良い」と「悪い」であっても、強者の道徳と弱者の道徳では、その内実が全く異なる。前者が自己肯定の道徳であり、他者が他者否定の道徳である。
ニーチェは、弱者の道徳が強者の道徳を凌駕する過程を、ルサンチマン(怨恨)による「道徳における奴隷一揆」と呼んだ。そこに欧州のユダヤ人の存在が重なり合うことも示唆したため、後にヒトラーにも影響を与えたと考えられた。
強者の道徳が優れており、弱者の道徳が劣っている、ということではない。要は、立場が違うと、世界観も変わってくる、と言うことである。
1939年の第二次世界大戦勃発時に公刊されたE・H・カー『危機の二十年』は、この問題を扱った国際政治学の古典だ。第一次世界大戦の戦勝国と、敗戦国ドイツが、同じ現実を見ながら、全く異なる世界観を持ち、意思疎通ができなくなっていた状態を、鮮明に描き出した。
「ユートピアニズム」と「リアリズム」という概念の用い方が劇的であったため、後の時代には、「カーはリアリストなのか否か」といった問いばかりに関心が寄せられるようになったが、的外れである。直接的な影響をマンハイムのイデオロギー批判から受けていたカーは、いわばニーチェが『道徳の系譜』で論じた問題を、国際政治にあてはめて論じたのだった。
アメリカが強かった時代には、アメリカは、自らが信じる自由民主主義の価値を強く推進しようとした。それは力に裏付けられたものであっただろう。したがって自由民主主義の価値観にそっていないとみなす勢力に対するアメリカの否定的な行動は、明快なものであった。しかしいずれにせよ、自由民主主義という自らが信じる価値観を肯定する道徳的規準があった。
今日、アメリカは、イスラエルと一緒になって「テロリスト」探しに躍起である。自らの行動を批判する者は、たとえ自国の大学の学生であっても、「お前はハマスだ」というレッテルを貼る。自らの信ずる道徳的価値を説明する前に、粗雑なレッテル貼りを通じて他者を否定することを通じて、自らの立場の正当化理由にしようとするのは、弱者の道徳である。イスラエルやアメリカがこのような姿勢を取り続けているのは、自らの立場の正当性に弱みを感じているからだろう。
アメリカは衰退している。中国人やロシア人だけではない。世界の大多数の人々が、そのように感じている。アメリカは、強者としての立場に居座り続けているかのように振る舞っているが、現実には相当に焦っている。したがって弱者の道徳に訴えるような態度も駆使しながら、強者の立場にしがみつくこと自体を目的にした、居直りを始めている。
中国人やロシア人が冷戦時代に信じていた共産主義は、典型的な弱者の道徳に基づく思想であった。資本家階級が悪く、資本主義が悪いので、労働者が正しく、共産主義が正しい、と推論する。この弱者の道徳は、他者否定の上にのっかっているので、強者を除去して自らが責任を負う立場になると、持ちこたえられなくなる。共産主義は、革命が成就するまでは正論であっても、革命後に道徳的力を失ってしまうことが多い。
現在でも中国やロシアは、アメリカの覇権主義を強く批判し、グローバル・サウスは味方だと表明する点において、依然として弱者の論理に訴えるところがある。しかし、多元主義を目指して諸国の自主独立を尊重する、「ルールに基づく国際秩序」を否定して「国連憲章中心の国際秩序」を尊重する、という立場の表明において、より積極的な価値を打ち出している。彼らが強くなってきているため、自信を裏付けにして、そのような価値観の表明ができるのだろう。
二つの世界大戦の間に生きたE・H・カーは、苦悩の中で、二つの対立する世界観の様相を描き出し、国際政治学の古典を書いた。その後、亡命ユダヤ人としてアメリカに渡ったハンス・モーゲンソーが打ち立てた「政治的現実主義」も、強国群の現状維持派と新興国群の変革派の相違を洞察するなどの点で、カーと類似した視点も持っていた。だが総論としては、力に基づく一元的な世界観で、アメリカが敵に勝ちぬくことを助言しようとするものだった。
その後の国際政治学の理論は、よりいっそう一元的で平板になった。普遍主義を装いながら、単線的な概念又はデータを振り回すだけで、思想・価値観・世界観の闘争を描き出すようことは、一切しなくなった。
国際政治学などのアメリカ中心で打ち立てられた社会科学は、あらためて思想闘争の視点を取り入れる必要性に迫られている。昨今の世界情勢を見ると、そのように感じざるを得ない。
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