テクノ・リバタリアニズムのどこが「居心地が悪い」のか

昨晩のBSフジ「プライムニュース」では、久しぶりに先崎彰容さんとじっくり話せて楽しかった。早くも公式なダイジェスト動画が、YouTubeに上がっている。スタッフの皆様、改めてありがとうございます(ヘッダー写真はその後編より)。

個人的に意外だったのは、むろん「警戒せよ」という趣旨なのだけど、先崎さんがテクノ・リバタリアニズムの動向を予想以上に気にかけていたことだ(話題になっている橘玲さんの『テクノ・リバタリアン』も持参して、時間をかけて議論されていた)。

以下、番組内ではお話ししそびれたことについて、ちょっとフォローを。

旧来のリベラリズムと、テクノかどうかを問わず「リバタリアニズム」の違いがどこにあるかというと、前者が重視する自由は「多元性」の同義語である。つまり「他の人と違っていい自由」を尊重し、できるだけ擁護しようと試みるのが、政治的なリベラリズムだ。

一方でリバタリアニズムが掲げる自由のコアは、端的に言えば「選択の自由」である。なんでも自分で選べれば、選べるほどよいとする発想は、むしろ経済的な自由に近い。実際、イーロン・マスクさん級のスーパーリッチインフルエンサーになると、近い将来、国家はおろか「世界のあり方」自体を自分で選べてしまうのかもしれない、というのが昨日の議論だった。

で、この先が喋り損ねた部分なんだけど、(私が)テクノ・リバタリアンに居心地の悪さを感じるのは、彼らが「大儲けしすぎている」からじゃない。むしろ彼らが、スーパープアかはともかく自分のサービスのユーザーに提供する「自由の質」が、本人のそれと著しく異なっているからだ。

マスクさんが買い取ったTwitter(X)のユーザーがいま享受するのは、「無関心でいる自由」である。異なる意見や感性の持ち主は互いにブロックしあい、なるべく相手の顔を見ることなく、最小限の他者への関心やケアで(一見)生活できる環境に、みんなすっかり慣らされてしまった。

儲けの多寡という「量」ではなくて、あなた自由の中身をすり替えて供給してません? という「質」の問題を考えるとき、やっぱりテクノが付く方の思想は、リバタリアニズムの堕落なんじゃないかと思う。

「リバタリアンの神々」のひとりは、ミルトン・フリードマンである。ハイエクやノージックのように哲学を説くのではなく、経済学者として政策の形に落とし込んだ分、毀誉褒貶は一層激しい。

要は、公共サービスをなんでも民営化し「弱者を切り捨てる新自由主義の権化」だとして、しばしば悪魔視される。愛嬌のあるマスクさんと比べても、(特に日本では)相当な不人気者で、経済効率しか考えない冷血漢のように見なされがちだ。

最晩年のフリードマン。
「悪者視」されると暗めの写真に偏るのもよくないのかも。
Wikipedia より

しかし、だいぶ前に書いたんだけど、フリードマンの主著『資本主義と自由』は1962年刊。有名なキング牧師のスピーチの前年で、公民権運動がピークを迎えていた頃だ。だから同書は、こと人種統合の問題に関しては、「学校を民営化する」だけでは解決策にならないと、率直に認めている。

他の多くの論点については非常にあっけらかんと「市場化すれば(公営よりは)すべてよくなる」と断言する「新」自由主義者のフリードマンが、教育行政と人種差別解消という課題に関しては――彼自身がユダヤ移民の息子だったこともあってか――やや屈折のある筆致を採っていることです。

まず公立学校においては、「個人の好みや自由は認めなければならないと考える私のような人間は……ジレンマに直面する」と認めた上で、公権力による「強制的な人種分離か強制的な人種融合[か]という二つの悪のうちのどちらかを選ぶとなれば、それはもう融合以外の選択はあり得ない」として、多人種の共学制を主張します。

当然ながらフリードマンの論理としては、だからこそ教育も民営化して、人種分離と融合の別も含めて「子供を通わせる学校を両親が自由に選べるようにすること」が最善であるという自説が続くのですが、しかしその後でも「もちろんそれだけでなく、人種融合を掲げる学校が当たり前になってそうでない学校は村八分になるように、行動と言葉でもって訴えていかなければならない」という留保をつけています。

マイノリティに対する差別の問題は、市場化によって個々人の選択の自由を拡大するだけではなく、「行動と言葉」がなければ解決しないことを認めていたのです。

2009年の拙稿より。
強調は今回付与

フリードマンの葛藤と異なり、ユーザーに「無関心の自由」を提供して稼ぐテクノ・リバタリアンたちは、概して「行動と言葉」に冷たい。そんなものはエコーチェンバー(=同じ意見しか耳に入らない残響室)に閉じ込めて、相互に分離したまま快適に過ごしましょうよ、と言いたげである。

だから、テクノ・リバタリアニズムへの対抗策として必要なのは、ビッグテック規制でマスクさんの会社を分割するとか、もっと納税させる的なこととは違って、「それってホントに自由ですか?」と彼らに訊き続けることなんじゃないかと思う。

こうした「自由」の問題については、今後ちょっと連投していきます。

P.S.
番組内でお話しした、テクノ・リバタリアンのおかげで「国家も単なるプラットフォーム業者にしか見えなくなる」事態が、中国では昔からそうでしたという話は、共著『教養としての文明論』の第2章で論じています。

私は自由の中身をすり替えずに売ってるので、みなさん買ってね!


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年5月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。