Mrs. GREEN APPLEを人権問題と叩く断末魔の構造

昨年のレコード大賞を受賞したMrs. GREEN APPLE(以下ミセス)が新曲「コロンブス」のミュージックビデオ(以下MV)において人権侵害を訴えられる騒動が起きた。

Mrs. GREEN APPLE『コロンブス』MVより

始めに断っておく、ミセスのこのビデオを見た限り、正直言って表現としては指摘を受けるリスクがあると想定するのが、今の社会情勢を俯瞰した常識的な意見であることは間違いない。

もっと端的にいうと、一部の活動家の攻撃を受けて炎上することは想起できたはずである。

その観点で言うと、今回のMVには二つの可能性がある。それは

  • 炎上を想定しながら、社会にうったえたい意図があった
  • 単純に社会の実情認識に乏しく、炎上を想定してなかった

だろうが、はっきり申し上げて前者の可能性は極めて低く、ほぼ後者だろうと想像できる。つまり広く言われている様に無知であったということだ。

その理由は、炎上後速やかに謝罪の上動画は削除されていることだ。もし前者の様に意図を持っていたら、主張があって然るべきだがそれがないのだ。しかも過去の活動や楽曲を見る限り、むしろ弱者に寄り添う姿勢を強く打ち出しているのだから、後者である事はほぼ間違いないと考えられる。

つまり、「やってしまった。ごめんなさい。」なのであって、それ以上の追及、炎上は無用と考える。謝って許されるものではない、という主張もあるかもしれないが、謝って許されないならどうして欲しいというのだろうか。過失で招いた事態を謝罪して改めて、それでも許さない社会が望ましいとは到底思えない。

それどころか、一部全国紙などの論調は『名誉白人気取りの差別主義者』とまで揶揄している。いくらなんでも過剰攻撃ではないだろうか。

このような執拗な攻撃を繰り返すメディアや有識者達は、果たしてミセスの活動や楽曲を知っていて言っているのだろうか。弱者に寄り添う、表現活動を続けているミュージシャンを『差別主義者』と罵る方こそ無知なのだ。

筆者の視線でも、あのMVの表現は、確かにまずいと感じる。でも、その同じ感覚で見れば、愛知トリエンナーレの表現の自由もまずいのであり、少なくとも公金を使って良いとは決して思わない。しかし攻撃する方々は、愛知トリエンナーレはOKでミセスは謝っても許さないなのである。これは暗黒の魔女裁判といっても過言ではない。

過去の歴史で悲惨な事実を忘れていい訳ではない。だが、社会環境も価値観も全く異なる時代の歴史を、現代の価値観で否定するべきではない。しかも一部の偏った意見だけで、全てをその価値観に染めるのは全体主義的な横暴でしかない。歴史はその時代背景と共にそれぞれの事象が起き得たプロセスを論理的に踏まえた客観的事実として理解すべきであり、そこからしか反省や改善は生まれない。

しかし、今回の攻撃を繰り返す人達の傾向は、現代の一部の価値観で過去の歴史を否定する、キャンセルカルチャー、歴史修正主義にはまり込んでしまっている。

弱者絶対正義とでも言いたいのだろうが、その実本当の弱者を攻撃している実相に気付かない、いや気付いていながらの活動は、既に見透かされ始め、行き過ぎた活動として反動が来ている。もはや断末魔に近い攻撃だろう。

冷静に、事の是非を見極め、ここまで攻撃する人達こそエリート気取りの何様だろうかと喝破し、素直に、謝った人間を許し、ミセスの楽曲を楽しみたいものだ。