パブリックセクターの憂鬱と希望:政治や行政の世界の魅力を増すために

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1. 官僚人気の凋落

先週、霞が関の採用戦線では山場を迎え、多くの学生たちが、色々な省庁から内定をもらったようだ。私の元にも、知り合いの学生などから、嬉しい知らせや残念な知らせが届いている。「立派だなぁ」と思う学生が、現在も数多く官僚を目指してくれていて、自身は既に辞めている身とは言え、とても嬉しく感じる。ただ、総じて、官庁就職の人気は低落傾向にあることは間違いないようだ。

倍率という定量的なデータももちろん重要だが、「優秀な人材がどこに行くか」という質の面での構造変化の方を学生は敏感に感じるものだ。その点、一部の“元祖官僚志望者”を除き、かつてとは異なり、既にコンサルティングファームや商社などの一流民間企業と官庁の人気は、既に逆転しているのはほぼ間違いのないところである。

私の古巣の経済産業省は、既に一期あたり60名台の採用をするのが当たり前になっており(私の頃は事務官と技官を併せていわゆるキャリア官僚の採用は37名)、若いうちに大量に辞めることを見越しての歩留まりを考えて採用となっている。

今年のデータはまだ分からないが、既に、経産省でも、東大生よりも早大生の方が採用が多い、という状態になっていると、先般、採用関係者に聞いた。東大生ばかりを取るなと叱られていた頃を知る身からすると隔世の感がある。

おりしも学生の官庁訪問(採用プロセス)が真っ盛りの際に、NHKではご丁寧に、クローズアップ現代と日曜討論の2回にわたって、あまり議論を深める形ではなく、如何に霞が関という職場が大変なことになっていて、人気がないか、ということをネガティブキャンペーン的に報じていたが、話題になることを狙ってこの時期を選んで放送したのであろうと想像はつくものの、一生懸命に官僚を目指している人たちの気持ち、役所の中で頑張っている人の気持ちになるといたたまれない気になる。

NHKは視聴率至上主義や売り上げ至上主義のメディアとは違うわけなので、また、彼ら自身、公務員のような存在でもあるわけで、どうしてこの時期にネガティブキャンペーン的に放送をする必要があるのか、と疑問に思わなくもない。もっと落ち着いた時期(官庁訪問の時期ではなく、全然別の時期)に、人気凋落の真因究明と打開策などを議論する番組をやれないものだろうかと感じる。

2. 政治の混乱と不人気傾向

ようやく国会が閉幕した。今国会では、予算も総理自らの政治倫理審査会出席などを契機に無事に成立し、閣法(内閣提出の法案、即ち官僚が原案を作成)では、提出した62本中61本が成立した。裏金問題などで政治が揺れている割には、かなり粛々と審議が進んだという実感だ。

セキュリティ・クリアランスに関する法案、食料農業農村基本法の改正、技能実習に代わる育成就労制度の関連法案、少子化対策関連法案、NTT法の改正、地方自治法の改正(コロナに懲りて、自治体に国が指示する権限を明記)などなど、各省の官僚たちが頑張って作成した大事な法案が数多く成立している。

ただ一本、洋上風力をEEZに広げる法案だけ、最後、時間切れで間に合わなかったのが個人的にはとても残念ではあるが、政治(与党)に対する相当厳しい逆風の中では、かなりの好成績であると言えよう。

ただ、一部の専門的というかマニアックなウォッチャーを除き、今回の国会のイメージは、とにかく、旧安倍派などの裏金問題、そしてそれに端を発する政治資金規正法の改正を巡る与野党の攻防ということに尽きているのではないか。

国民から見ると、「また、政治とカネか」「俺たちの財布は、マイナンバーだなんだとガラス張りになって来ているのに、政治家は裏金が許されてきたのか」とあきれた気分にもなる。今回の一連の出来事により、政治不信が増大し、政治への絶望が増したことは間違いない。

かつて、公務員倫理法の成立により、民間企業と自由に飲食を共にしたりすることがやりにくくなった時期に、これはバカバカしいということで(民間企業の奢ってもらえないのが残念なのではなく、官民が率直に様々な場で議論することがやりにくくなったことを残念に思って)、それを一つの大きな理由として公務員を辞めた先輩がいたが、「透明化」というのは、聞こえはいいが、事前申請その他手続きはかなり面倒になり、会合に行く気力がそがれる。

今回の一連の政治資金規正法の改正についても様々な批判はあるが、当事者からするとより面倒になっていることは間違いない。このワクワクする改正で是非政治に行きたくなった、という人材はまずいない。しかも、これはザル法だ、ということで今後、益々規制が強まることも想定すると、更に政治を目指す人は減って行くであろう。

「物事を透明化していく」「合理的・客観的に理性と数字で物事を判断する」というのは、なかなか反論しにくい強力な正義の言葉だが、そのことと、実際の人気とは違う。

何でもガラス張りの生きにくい世界に飛び込むのはよほどの変わった人だけとなり、多くの優秀な人は、政治家になるとか政治の世界で頑張るという選択をしなくなっていくであろう。既にその傾向はあるが、官僚の世界と同様、或いはそれ以上に、政治の世界に寄りつく人も低減傾向にあると思われる。

3. 政治・行政の世界の概観

以上、官僚と政治の世界の人気凋落ぶりを概観してみたが、その一つの帰結なのか、ごく一部の例外を除き(誰がそうなのかは敢えて言及しないが)、都知事選の数多の候補者を見れば、例えば首都の首長という公職は、およそわが国のベスト&ブライテストが目指している職業ではないことが明らかだ。

かつては、優秀と言われた人材が官僚になって、その後、都知事などを目指したものだが(鈴木 俊一氏など)、今は、学歴詐称疑惑者や二重国籍疑惑者や都民生活を真剣に考えたことなどはないであろう売名目当ての数々の地方出身者など、正直、誰を選んだら良いのか当惑する候補者ばかりだ。

我が国の多くの優秀層は、弁護士になって、或いは一流コンサルタントとなって、はたまた投資銀行の幹部などになって、理系で言えば医師などになって、1億円~2億円稼ぐ人がザラにいる世界に行くのが主流となっている。

東大時代からの私の友人の多くも、優秀と言われる人ほど、素敵な家やマンションに暮らし、美味しい料理を食べたいだけ食べ、しかもその多くは経費で落とせ、職場は高層ビルの素晴らしい眺望の部屋にあってしつらえも素晴らしく・・・という生活を謳歌している。そういう人たちが、政治や行政の世界を垣間見ることはあっても(役所に短期間出向したり、仕事上付き合ったり)、どっぷり浸かりたいと思って実際に転じることはあまりない。

かつては、公共の世界でも、様々なフリンジ・ベネフィット(宿舎や保険など、直接の支払い報酬以外でのメリット)があったり、その他、経費の活用などについても色々と融通が利いたりする部分が多分にあった。しかも、パブリックセクターは、かなりのやりがいがあることから、多くの優秀層が政治や行政の世界に飛び込んで行った。

それが、メディアを中心に、多くの国民が少しでも「不透明な部分」があると叩きに叩きまくるので、どんどんと公共で働く人への実質的な「報酬」が減り、政治行政には多くの人が寄り付かなくなっている。給料が少ないだけでなく、オフィスは狭苦しく、使えるお金(飲み会などで経費が認められることは公務員ではほぼない)は少なく、おまけに長時間労働・・・では、自分や家族の生活を考えると自ずと選ぶ道は決まってくる。

「公共のために」ということであれば、本来得られるの給料の1/10でも望んでその世界に飛び込み(今や上記のような「実入りの良い職業」と公務員とで、給料に10倍くらいの差がついていることはザラにある。

“10倍”はメジャーではないにせよ、2~3倍の差はごく普通だ。それくらい、優秀層マーケットにおけるパブリックセクターとプライベートセクターの差は現前とついてしまっている)、少しでも疑惑があると「原資は税金なのに・・・」と叩かれるガラス張りの世界でも、それでも頑張るという人材は、考えるまでもなく今や稀有であり、絶滅危惧種である。

政治の世界は、ファシリティ(設備)はまだましではあるが、衆人監視の状態は一般的な公務員の比ではなく、それこそ土日もない。当然に、上記のキラキラした世界、優秀層が普通に目指す高給取りの世界とは比べるべくもなく、優秀層では特に「よほどの変わった人しか政治に飛び込まない」という傾向に拍車がかかっている。

つまりは、旧来的な企業などを除いて、外資系企業などを中心に、民間セクターでは、どんどん労働条件・生活条件が改善して素晴らしくなるのに対して、パブリックセクターでは、むしろ、報酬その他の条件があまり改善しないばかりか、監視度はどんどん高くなり、ますます息苦しくなっている。すなわち、①民間セクターの魅力向上、②パブリックセクターの魅力低下、というダブルパンチで、その差が拡大しているわけだ。

我々国民は、「透明化」「合理化」「健全化」などの美名の下で、この何十年かで、じわじわと、日本の優秀人材をどんどん、自分たちのためのセクター、すなわち公共セクターから遠ざけて、外資系企業などに「追いやって」きた。

彼ら優秀人材は、どんどん、自らの能力や自ら運用したり動かしたりできるお金を海外で使うようになり(悪く言えば、国内の様々な資金を外資系企業に「貢ぐ」ようになり)、極めつけのその結果が今の円安であるともいえる。我々日本人は、本当に社会を進化させてきているのか、マクロに見ると疑問にも思えてくる。

4. パブリックセクターの希望とチャレンジ

上記のとおり、条件面では、ますます民間に比べて分が悪くなってきているパブリックセクターではあるが、その“やりがい”は不変である。つまりは、国のため、地域のため、社会のために貢献したい、それらを少しでも良くして次の世代につなげたい、という思いは多くの人が原初的に有している。

その思いの発露の場として、かつては典型的に、政治や行政という世界があったわけだが、先述のとおり、それら世界の現実は厳しい。かつては、新聞やTVや雑誌など、社会の木鐸として公共の役に立つ世界も輝いていたが、今はその世界も輝きを失い、混沌とした玉石混交の不気味なネットによる広報・発信という世界が急速に伸びている。メディアの世界に入る優秀層も減ってきている。

そう考えると、パブリックセクターは“絶滅に向かって一直線”のようにも思われるが、意外にセクター全体で見ればそうでもない。少し前に「“ゆとり世代”の次は“悟り世代”」などという冗談(真実?)もささやかれたが、まさに、積極的にボランティアに行ったり、環境に気を使って日々生活をしたりという、いわば私欲よりも公益を大事にしようという「悟った」世代が急速に育っている。

彼らは、手垢がついて薄汚くみえる政治や行政の世界には直接飛び込まず、NPOや政府関係団体、学問の府や外郭団体などという世界から、自由度を保ちつつ、生き甲斐を感じて活躍をしている。一昔前のように、市民団体やNPO団体というと「反政府系」みたいな時代とは異なり、今は、政治家や公務員とうまく付き合いながら、より良い社会の実現にいそしんでいる。

或いは新しい「公共世代」は、民間企業に普通に就職しつつ、また、弁護士等の士業につきながら、その土俵の中で、パブリックなことをしている。典型的には、企業の内外で、民間人として、いわゆる政府渉外系の職に就きつつ、政府と交渉したり、時にタッグを組んだりしながら、世の中を変えようとして奮闘している一群の人たちがいる。

本来であれば、政治や行政の世界の魅力をより直接的に向上させて、人材をそのフィールドに引き込むのが王道・常道だ。しかし、現実的には、現下の状況では、例えば、政治や行政への監視を緩めて自由度を増させるとか、役人の給料を思いっきり引き上げるといった施策は実現不可能だ。

特に、日本のように外形的にはかなり進んだ民主主義の仕組み下では、オルテガの大衆人にせよ、ニーチェの強者への怨恨感情にせよ、いわゆるルサンチマンがどうしても強く発現してしまうため、この手の優秀なパブリックセクター人材への優遇策は認められにくい。(※シンガポールの役人の好条件を良く持ち出す人がいるが、シンガポールは「明るい北朝鮮」とも言われ、首相が独断で割と決められる。)

そうなると、パブリックセクターに優秀人材を引き留めるには、上記で活写したような、政治や行政(や既存メデイァ)以外の、シビル・ソサイエティで公共のために活躍する人材や可能性を際立たせ、伸ばしていくしかない。

より具体的には例えば、人材確保に関しては、パブリックセクター全体での募集イメージを強化させ、同時に、そうしたパブリックセクター内での人材の移動を容易にすることが大事になる。

政治家そのものは、衆人監視にさらされて生きづらいものの、例えば、政党の政策人材(政調などのスタッフ、或いは政党にシンクタンクを作る場合のそのスタッフ)などの枠組みを広げ、NPOから政党スタッフ、政党スタッフから官僚、官僚から民間の政府渉外ポスト、政府渉外ポストからメディア、メディアから官僚・・・といった様々な流れを作ることで、パブリックセクター全体の魅力向上が見込まれる。

議会等からの監視が厳しい政治家や官僚の給料やフリンジ・ベネフィットを向上させることは困難だが、それ以外のところでは、原資の確保さえできれば実はさほど難しくない。稼げるNPOとか、稼いでいる企業からのメディアやNPOなどへの資金循環も本格的に考えても良い。

青山社中では、現在、内部で、パブリックセクター全体のサミットというか、まずは手始めに、青山社中リーダー塾や青山社中リーダーシップ公共政策学校生など、弊社に関係する人たちを対象に(例えば上記の両校など現役生・卒業生を併せると、これまで私が教えて来た学校の受講生をどこまで足すかにもよるが、少なく数えても延べ700~800名程度にはなる)、パブリックセクター盛り上げのイベントの開催を考え始めている。

政治や行政の人気が凋落する中、日本の活性化のため、パブリックセクターにおいて何が出来るか、青山社中としても朝比奈としても、解を模索し、具体的アクションについて考えて行きたい。