2022年に池田信夫さんと出した共著は、ぼくとしては『令和を「劣化平成」にしないために』というタイトルがいいかなと思っていた。色々あってそうはならず、ただし帯の裏側に入れる惹句にその案は活かされている。
七夕の東京都知事選の結果を見て、しかしやっぱり、令和は「劣化平成」になっていくのかなと思った。そうした省察は、きっとあまりなされないと思うから、ぼくが書いておく。
多くの人が、石丸伸二・前安芸高田市長が事前の予想を上回る旋風を起こして2位につけ、逆に「立憲共産党」との揶揄をいとわず、左派連合色を出した蓮舫・前参院議員が3位に沈んだことを話題にしている。それも37万票差だから、かなりの大差だ。
しかし、実はちょうどこの構図と重なる選挙が平成の序盤にあった。1993年、劇的な自民党下野をもたらした衆院総選挙である(ちなみに、小池百合子氏が参院から衆院に転じた選挙ですね。近い時期のヘッダー写真は日本経済新聞より)。
実はこの選挙、自民党を割って出る際に小沢一郎氏(新生党)が主たる連立相手に考えていたのは、社会党だったとされる。しかし、国会での「何でも反対」の姿勢が飽きられていた社会党は、議席をほぼ半減させる大敗。
逆に想定以上に躍進した日本新党の細川護熙代表を、非自民連立の首班に担ぐプランに急変して、55年体制が終わったことはよく知られる。実は自民党の側でも、ひょっとすると小沢に先んじて小泉純一郎氏が「細川首班で政権の維持」を画策していた挿話は、(山崎拓氏の回想に基づき)拙著『平成史』で触れた。
いまでこそ「まぐれ当たりの首相」のように揶揄されがちな細川氏だが、日本新党の結党前には、参議院議員(自民党)と熊本県知事をそれぞれ、ほぼ2期ずつ務めていた。安芸高田市長を「1期で投げ出した」とも批判される石丸氏に比べれば、5倍くらいキャリアは長い。
いま皮肉に映るのは、ちょうど都知事選とも同じだけれども、1選挙区から「1名」しか当選できない小選挙区制を衆議院に導入する契機となったのが、この1993年の総選挙だったことだ。
首都決戦でこれだけの波を起こしたのだから、かつての中選挙区制(1選挙区から3~5名が当選)の時代であれば、石丸氏を国政での新党の看板にといった政界再編の流れも、生まれていたかもしれない。だが令和には、それはちょっと、想像できないように思う。
蓮舫氏の陣営は、これから戦犯裁判で大変だろうけど、惨敗すれども悲願の自民党下野に結びつけた往時の社会党のような、最後の栄光すらいまや残ってはいない。なんだかもう、「劣化平成」と呼ぶ以外に、どう形容したらいいのかわからない次第なのである。
なおネットでもうひとつ話題の的なのは、ひまそらあかね(暇空茜)候補の「善戦」だ。期日前投票では4位の田母神俊雄候補とほぼ同率の5位に入ってNHKの開票速報にもランクインし、最終的には11万票を獲得した。
ひまそら氏も当選は度外視での立候補だったろうが、それをとやかく言う向きはおかしいと思う。たとえば「共産党政権ができてほしくはないが、自民党政権にお灸を据えたいから、共産党に入れる」といった投票は、昭和(戦後)と平成を通じて一般的だった現象で、なにも悪いことじゃない。
同じように「小池都政にお灸を据えたい」有権者がひまそら氏に一票を投じたのなら、「情報公開や公金の使途への批判票」を可視化する意義を果たしたと、公平に評価すべきだ。そうした民主政の機能をわきまえない、以下のような歴史学者の妄言こそ、噴飯ものである。
歴史学者の底辺がどこまでバカでも、一般の国民には関係のないことだが、平成という直近の過去をめぐってすら「歴史を振り返る」営みが衰弱していることには、どうしても肩を落とさざるを得ない。おそらくそれはこれから、この国の政治の大きなリスクになってゆくと思う。
P.S.
蓮舫陣営の選挙戦術があまりに嗤いものにされていて、ちょっとかわいそうだったので、こちらの動画に一言。
「君の瞳に恋してる(Can’t Take My Eyes Off You)」って、1978年の映画『ディア・ハンター』で事実上の主題歌として引用されたので、ベトナム反戦世代にとっては結構大事な曲なんですよ。「立憲共産党」のコアな支持層がそこにあるなら、使うこと自体はそこまで間違ってない。
もっとも、蓮舫さんは1967年生まれだから、たぶん当時の記憶は別になくて、バブル期のディスコで踊ってただけかもしれないけど(……あれ? いまもっと嗤うようなこと言ってる?)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年7月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。