『経済財政運営と改革の基本方針2024』から
今回は前稿(7月14日)と同じく、2024年6月21日に閣議決定された『経済財政運営と改革の基本方針2024』(『基本方針』)、『経済財政運営と改革の基本方針2024~政策ファイル』(『政策ファイル』)、『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画 2024年改訂版』(『グランドデザイン』)、『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画 2024年改訂版 基礎資料集』(『基礎資料集』)を読み込んで、『基本方針』「6. 幸せを実感できる包摂社会の実現」の普遍性と限界についてまとめてみたい。
(前回:「骨太の方針2024」(地方創生関連)がもつ普遍性と限界)
包摂社会
まずは節の題名となった「包摂社会」については、「家族のつながりや地縁も希薄化する中、制度・分野の枠や『支える側』、『支えられる側』という従来の関係を越え、一人一人が生きがいや役割を持つ包括的な社会を実現することが重要である」(『基本方針』:27)と言われただけであった。
社会学からすれば、「包摂」の対極には「排除」ないしは「疎外」を想定することになる。そうすると限りなく大がかりな「包摂社会」論を構想しないと、このテーマを論じたことにはならない。「疎外論」まで広げると、大部の資本主義論の著書が必要になる。
「疎外」のすがた
なぜなら一般に資本主義社会では、「われわれの公共的な存在とわれわれの個人的存在との間、市民としてのわれわれの役割と社会の私的な成員としての役割との間には、裂け目がある」(傍点原文、パッペンハイム、1959=1960:97)からである。
これは初期マルクスの論題でもあるが、ここにいわれる「裂け目」こそが、「個人的存在」としてのわれわれには「疎外」として感じられるのである。しかし、もちろん『基本方針』では「疎外」論までの踏み込みはない。
かりに踏み込むならば、哲学的な「疎外論」は避けて、シーマンが開発した「アノミー指標」を活用した方が具体的になる。
画期的なアノミー指標
シーマンは「疎外」(alienation)を世界で初めて5つの具体的指標に分解した。順不同だが、それは①無力感(powerlessness)、②無意味感(meaninglessness)、③無規範性(normlessness)、④自己-疎隔感(self-estrangement)、⑤孤立感(isolation)になる(Seeman,1959)。
要するに、アノミー指標を使えば、かりに個人が「疎外」を感じるのならば、それは自らの「無力感」か、仕事をする上での「無意味感」か、世の中は自分が思うようには動いていないという「無規範性」への諦めか、仕事も人間関係でも自らが「疎遠」に感じるのか、どこにいても何をしても「孤立」を感じてしまうのか、などの「下位領域」に具体化できて、分かりやすくなる。
この5指標を基にして、後には「絶望感」(hopelessness)などいくつかの指標が追加されたが、いずれも「疎外」論の哲学的な隘路を避けて、操作概念化したうえで、調査票に盛り込み、①から⑤までの結果を数値化することになる。
そうすることで階層比較、ジェンダー比較、世代間比較、都市農村比較、国際比較が可能となった。『基本方針』にはそこまでの記述はもちろんないが、「包摂」を政策的に使うのであれば、「排除」への考慮は避けがたいし、いくぶんかは学術的な「疎外」論や「アノミー指標」への着眼もほしくなる。
一人の人間は「包摂」も「排除」もある
さて、「一人一人が生きがいや役割を持つ」ことは当然だが、その「生きがい」の源泉は限られているし、割り当てられる「役割」も極めて限定的である。そのために、小学生教育に「生きがい」を感じて、その「役割」を果たす人もいれば、会社員としてクルマや薬の販売に「生きがい」を持ち、会社の業績向上こそが「役割」と心得る人もいる。
この両者はそれぞれに「排除」的なのだが、総体的にはどちらも社会システムに「包摂」されているという意味では、誰しもが特定分野に「包摂」されつつ、別の分野からは「排除」されているのが社会システムの一員としては通常の姿である。『基本方針』にはこのような観点は見当たらない。
「幸せを実感できる包摂社会の実現」は政策目標にはなりにくい
その意味では、わざわざ「幸せを実感できる包摂社会の実現」を政策目標にするには及ばない。なぜなら階層の違いを超えて、政治の一面である「選挙」に「包摂」される有権者としての存在もあれば、特定の株式を持っていることによりその会社に「包摂」される株主総会もある。どちらも該当する人にとっては、個人的な「幸せを実感」できるかもしれないからである。
すべての学校でも、在学生としての「包摂」は自然になされるが、一旦卒業してしまえば、同窓会以外は「排除」されることが多い。これは民間企業でも公務員でもNPOでも同じ構造をもっている。
自らの選択によってその中への「包摂」を選ぶ
なぜなら、社会システムを構成する個人からみれば、様々な「分離」の関係を基調としつつも、自らの家族・親族や友人それに職場での「結合」の細い関係は維持しているからである。
換言すれば、数多くの断片で社会システムに関わっている個人でも、自らの選択によってある種の社会システムの断片領域への「包摂」を選ぶことができる。
これは世代間での相違はもとより、一人の個人でも、小学生での「包摂」は学級に象徴されようが、中学生になればその他のたとえば野球部やバレー部という部活動にも「包摂」範囲が広がる。
結合定量の法則
さらに高校生になると、受験をめぐる予備校や通信教育など「包摂」さえも登場する。これらすべてでジェンダー間の違いは生じない。
大学を卒業して社会人になれば、ますます選択の範囲は広がるが、「包摂」の範囲がそれに比例するわけではない。なぜなら、人間個人の持ち時間も関心も限られているから、無制限の「包摂」はあり得ないからである。
これは高田保馬が発見した「結合定量の法則」(高田、1949=1971=2003:166-179)で説明することができる。
個人でも社会でも「定量の法則」は成立する
「結合定量の法則」は、①結合強度の相関と、②結合強度と数との関係に分けられている(同上:168-169)。
「結合強度の相関」とは、「個人」の場合では特定の人と強く結びつけば、他の人々との結合が弱くなることを意味する。また「社会」の場合でも、家族・親族との結合が強ければ、日本全体の社会システムへの関心は薄れるだろうし、「会社」一辺倒ならば、居住地域の「町内会」や「労働組合」への配慮は乏しくなる。
もう一つの「結合強度と数との関係」とは、接触する人々が増えれば、全体的にはそれぞれの個別関係が弱くなってしまう。現代社会のように無数の団体・組織・機関が林立していれば、個人が多くの団体・組織・機関に所属するほど、全体としての社会システムの動きが一元化されないために、社会全体がまとまりにくくなる。
このような社会学の観点がないままの「包摂社会」論では、行政上の政策展開も難しくなるだろう。ここでも、『基本方針』の執筆者に先行研究の目配りを求めておきたい。
無定義の「共生」や「共助社会」
次に、(1)共生・共助・女性活躍社会づくりについてのべるが、ここでも無定義のままで「共生」や「共助社会」が繰り返し使われている。これは『基本方針』執筆者のくせであろう。
たとえば、「地域において安心・安全に暮らせる共生・共助社会の構築を目指し、本年夏頃を目途に新たな高齢社会大綱を策定する」(:27)とある。これだけでは「共生・共助社会」の説明としても不十分である。
女性活躍
男女共同参画の流れを受けて、日本の「女性活躍」は、「経済的自立」に向けて、働く女性を軸とした「女性役員」の増加、「女性起業家支援」「女性の所得向上」というように、「活躍」のイメージが給与を前提とした労働に偏りすぎる印象がある。そして「仕事と育児・介護・の両立支援」が最後に付加される。
あたかも専業主婦で町内会に関わったり、こども食堂のボランティア活動や、子どもの野球サークルやサッカー少年団の応援という形での地域社会での「母親」の「活躍」は無視されているように思われる。
これらは「骨太の方針」に「包摂」されていなくて、「排除」されてきた。それは、「一人一人が生きがいや役割を持つ包括的な社会を実現する」という『基本方針』の趣旨にも反するのではないか。
共生の視点
なぜなら「共生」だけを取り上げても、最新の専門書では「共生は自生的な関係性であるとともに、意図的な行為によっても生起する」(三重野、2023:17)と定義されていて、10の視点にまとめられているからである(表1)。
私たちが生きている社会システムでは、三重野が整理した10点にもおよぶ「共生」があり、状況次第で臨機応変に各自が「共生」を使い分けている。とりわけ「差異」を認め合う中で、「平等」の視点を堅持できるかどうかが、現実的「共生」の現場では求められている。これは「包摂」と「排除」と同じ文脈にある。
上の例でいえば、「女性役員」や「女性起業家」と同じ文脈で専業主婦としての地域活動もまた「包摂」されないと、「骨太の方針」にはそぐわない。
「共助」はNPOだけが行えるのではない
一方『基本方針』における「共助」は、なぜかNPOに特化した印象を与える記述になっている。
「寄附の促進等に加え、NPOの行う事業を支援する中間支援組織を通じた支援を含め、・・・・・・NPO法人の活動促進に向け、(中略)環境整備を進める」(:28)。
しかし「共助」は元来、「近隣地域のなかでの人間関係を媒介とした支え合いのあり方」(金子、2023:188)であり、いわゆる五助としての自助、互助、共助、公助、商助の一翼を形成する。決して「共助」だけが「幸せを実現できる包摂社会」にとって有効な要件なのではない。
これらの「五助」を家族構造に関連させれば、図1が得られる。
「自助」「互助」「公助」「共助」「商助」
このように『基本方針』では「共助」しか使われていないが、「共助」は「自助」「互助」「公助」の「三助」に「商助」を加えた「五助」の一部であるというのが私の立場である。
ここにいう「五助」とは、専門機関のサービスの代表である「公助」(自治体主導)と「商助」(民間企業によるビジネス)に加えて、居住するコミュニティ内部の人々が「ソーシャル・キャピタル」を発揮して日常的に助け合う「互助」、災害緊急時や年に数回の道普請や溝浚えの伝統をもつ共同作業時の「共助」、そして基本的には自己責任と重なる「自助」を融合させたものである。
これは家族構造を軸として、その全体関連的支援図式の意味をもつので、「五助」すべてが「総合地域福祉社会システム」に関連することになる。
自助、互助、共助
さらに細かく説明すれば、家族内の自助とは、自己責任と重なる自らの行為を指していて、高齢者からその孫までの三世代いずれにも等しく求められる。
また互助とは可視的な近隣関係の中で、居住者が持つ「ソーシャル・キャピタル」を利用して日常的に助け合うことであり、相互性を軸とした関係がそこにはある。
そして、共助はNPOだけではなく、災害や犯罪発生時のいわば緊急時や年に数回の近隣での共同作業(小公園の草取り、道普請、溝浚えなど)なども含んでいて、この三者は日常的に居住者がもつ「ソーシャル・キャピタル」によって支えられている。いわば専門サービスとは無縁の日常的な素人としての関わりの中で培われている関係性が読み取れる。
公助と商助
ところが、公助と商助はともに専門機関が請け負ったサービスを居住者に提供することで発生する。両者の違いは、公助の場合は全額もしくは半額程度の税金が自治体や国によって支払われるサービスであることに対して、私が命名した商助では民間企業が有償で個人に提供するサービスを基調とする。
たとえば「夕食宅配サービス」は両方が共存しているが、多くの場合で公助では一食600円のうち半額が本人負担で、残り半分は自治体が負担する。しかし、民間企業が提供すれば、その費用は全額利用者本人が支払うことになり、それが商助と位置付けられる。その意味では、地下鉄やバスの「敬老優待パス」もまた、公助の性質をもっている(金子、前掲書:188-190)。
五助のすべてが皆無『政策ファイル』
ただし残念なことに、『経済財政運営と改革の基本方針2024~政策ファイル』の「新たな広域圏の形成」でも「全世代型健康診断」そして「新たな働き方・暮らし方を実装するモデル地域の創出」でも、これら五助のすべてが皆無である。
代わりに、前稿(7月14日)で疑問視した「リ・スキリング」や「リ・デザイン」、「スタートアップ」、「コ・ワーキング」などのカタカナ用語は頻繁に使われた。これでは国民への浸透力に不安が残る。
孤独・孤立対策にも商助が有効
というのは、そのようなカタカナ用語ではなく、五助の一翼を担う「商助」は、単身社会の中で新しい機能を帯びつつあるからである。単身化の進展で、一人暮らしの高齢者が全国的に増加してきたが、それに伴いいわゆる「孤独死・孤立死」もまた増えてきた。
「サードプレイス」の意義
政府でも自治体でも「孤独・孤立対策」は熱心に行われてはいるが、コミュニティレベルでは近年商助の一環として「喫茶店」を活用する新しい試みが報告されている(松宮、2024:165)。
具体的には都市社会学の「サードプレイス」や「第三の空間」理論を応用して、「孤独・孤立」予防の観点から街の「喫茶店」をそれに見立てて、「コミュニティの結節点」にしていこうという動きが始まっている。
単身社会ではこれもまた「新たな暮らし方」の一部なのだから、従来の社会学的な研究成果であるコミュニティ論を活用すれば、政策対応にも有効な知見が得られるはずである。
喫茶店文化の政策的応用
これは東海地方特有の喫茶店文化をコミュニティ論に持ち込んだものであり、愛知県長久手市ではその試みが続けられてきた。
「大学をまちづくりに生かす」ために、学生たちを中心にした「食事会」が企画されて、単身の高齢者にとっての「サードプレイス」づくりも始まっている(同上:168)。
NPOだけが「共助」の柱ではない
『基本方針』では、「NPOとの連携」、「NPOの行う事業を支援する」、「NPO法人の活動促進」などが繰り返し書かれている。しかし「共助」の主体や仕掛けはNPOだけが受け持つのではなく、コミュニティのさまざまな機関や集団の働きにも目配りをして、利活用につなげておきたい。
たとえば「商助」の一環としての郵便局ネットワークの活用について、総務省が全国の市町村自治体に「何を期待するか」というアンケート調査では、「地域の安全・防犯・見守り」、「証明書発行などの行政サービス」、「防災・災害対応」がそのトップ3を占めた(原田、2024:10)。
これらもまた広い意味での「共助」に該当する。
(2)安全・安心で心豊かな国民生活の実現
安全・安心とは何か
まず安全・安心について抑えておこう。
安全は危険とは無縁な状態を意味すると仮定すれば、危険を構成する要因には、日常的な国民生活のレベルでいえば、事故、火災、自然災害、公害と環境汚染、犯罪、動植物などがあるので、それらから自由な状態こそが安全という理解になる。
『基本方針』の事例もまた、犯罪などから国民を守る治安、交通事故への対策と支援、詐欺などの犯罪の抑止と対処から国民を守る、食品被害防止、ハラスメントへの対策、花粉症対策、クマの出没防止、害虫への対処、新型コロナウイルスを始めとする感染症危機への対応などが網羅的に示されている。
『社会生活統計指標』にみる「安全」指標
一方、長い歴史をもつ総務省統計局『社会生活統計指標』の「安全」分野は、消防施設、消防活動、交通安全、交通事故・違反、防犯、犯罪、自然災害、不慮の事故、公害、保険に分けられてきた。『基本方針』のほうが「安全」指標では幅広いように思える。
どちらを選ぶにしても、「共助」だけではどうにもならない。むしろ、政府や自治体が中心にならざるを得ない消防、犯罪、自然災害、公害などもあるし、自助や互助により対応が進む交通安全・違反、防犯もあることから、やはり五助すべてを『基本方針』に含むことが求められる。
文化芸術・スポーツ
「安全・安心で心豊かな国民生活の実現」に、なぜ「文化芸術・スポーツ」が含まれるのかよく分からない。
もちろん「国民生活」の一部にこの両者も構成要素であることはいうまでもない。しかしその政策内容は、国立劇場の再整備、メディア芸術ナショナルセンターの拠点整備、新国立劇場の機能強化、博物館・美術館など、総じて箱ものへの言及に終始している。書店の活性化も書かれてはいるが、具体策があるわけではない。
スポーツでも、スタジアム・アリーナの整備・活用、総合的・複合的な施設整備、スポーツDXなどが羅列されたにとどまる。
芸術やスポーツによる社会活性化
文化芸術でもスポーツでも積極的な実践者は国民のうちどれくらいいるのだろうか。
2019年の厚生労働省「国民健康・栄養調査報告」によれば、20歳以上で「運動習慣のある人の割合」は、男性が33.4%、女性が25.1%になっていた。ここで言う「運動習慣のある人」は、1回30分以上の運動を週に2回以上実施し、1年継続している人」と定義されている。
予想以上に多く感じるが、それでも男女ともに70%程度は非該当なのだから、本気で「地方創生、経済成長、健康増進などスポーツによる社会活性化を図る」(:31)つもりならば、義務教育段階から音楽、美術、技術家庭、体育の時間を増やさないと成功しない。
高校入試科目の見直しを
そして、この一番の特効薬は高校入試の科目にこれらを復活することである。
日本でも団塊世代を挟んだ前後7年間だけ高校入試は、いわゆる主要5科目にこれらの4科目を加えた9科目で行われていた。だから、音楽の基礎的知識や色の三原則、いくつかの好みのスポーツルールなどは知っている。それらが50年後の高齢者の「生きがい」の8割程度を担うのである(金子、2014:219;2023:228)。
高齢者の生きがいの源泉は音楽、美術、技術家庭、保健体育のどれか
しかしながら、直後の「3. 主要分野ごとの基本方針と重要課題」に置かれた「(3)公教育の再生・研究活動の推進」では、義務教育の科目見直しや入試科目の再点検には全く触れられず、「質の高い公教育の再生」のみが繰り返されたにすぎない。
教師の働き方、働く時間、クラス編成、給与、管理職手当、地域との連携、食育なども重要ではあろうが、30%を超える高齢化率が30年くらい続くことを考えると、高齢者になってからの「生きがい」の柱となる音楽、美術、技術家庭、保健体育の見直しと高校入試科目への復活こそが、「全世代」を巻き込む「質の高い公教育の再生」に直結するのではないか。
このように、義務教育段階からも「幸せを実感できる『包摂社会』の実現」は可能である。「骨太の方針」でも、その「包摂」の内容と方法について再考を期待したい。
【参照文献】
- 原田亮介,2024,「人口減少と郵便局ネットワークの役割」『JP総研Research』vol.66 JP総合研究所:4-13.
- 金子勇,2014,『「成熟社会」を解読する』ミネルヴァ書房.
- 金子勇,2023,『社会資本主義』ミネルヴァ書房.
- 松宮朝,2024,「エイジングとコミュニティ社会学」 金子勇編『世代と人口』ミネルヴァ書房:123-178
- 三重野卓, 2023,「福祉ニーズと共生・協働の論理」三重野卓編『福祉と協働』ミネルヴァ書房:1-50.
- Pappenheim,F.,1959, The Alienation of Modern Man, Monthly Review Press.(=1960 粟田賢三訳 『近代人の疎外』岩波書店)
- Seeman,M.,1959,‘On the Meaning of a Alienation’ American Sociological Review Vol.24:783-791.
- 高田保馬,1949=1971=2003,『社会学概論』ミネルヴァ書房(新版).