薄まる海外日系コミュニティの存在感:なぜ脱落者が続出するのか?

日経に「ロスのリトルトーキョー、存続の危機 地価高騰や高齢化」という記事があります。ロスの日本人街として名声があったリトルトーキョーも今やその面影が薄くなったというものです。記事では世界の日本人街の変容ぶりを紹介しており、アメリカ西海岸やハワイ、南米、更にはドイツのデュッセルドルフまで紹介されているのになぜかバンクーバーとシアトルが抜けているのは意図的なのか、記者が知らなかったのか、わかりません。

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そこでこの記事の記者に代わって私がバンクーバーの日本人街の話をしましょう。日本人のバンクーバーへの移住は1877年の永野万蔵氏ということになっていますが、実際にはそれより先に来た方がいたような話もあります。いずれにせよ、1901年には移住者は5000人以上になり、1907年には18000人まで増えるなど世界の日本人街でもバンクーバーは代表的目的地の一つになっていきます。その人たちが集まったのが旧日本人街とされるパウエル通りエリアでダウンタウンの東にあります。

私が当地に来た1992年頃はだいぶさびれていましたが、それでも日本食レストランや食材店などがありました。その後、急速に廃れたのは旧日本人街や隣接する中華街に対してバンクーバーで最も悩ましいドラッグの中毒者やホームレスが集まるエリアが重なりあうよう存在するため、市役所が当該エリア全般の開発を全体方針が決まるまで凍結してしまったことにあります。

戦後、日系カナダ人はばらばらになり、水産業に特化したスティーブストン漁港エリア以外は日本人村を作ることなく各地に居住します。一方、80年代の海外旅行ブームでバンクーバーは日本人から大人気を誇り、多い年で年間50万人もの日本人客が訪れました。多くのツアーはカナディアンロッキーやビクトリアなどとの組み合わせでバンクーバー滞在は1-2泊でした。が、日本食が食べられかつて大橋巨泉さんのOKギフトショップを含む土産物店が並ぶ「新日本人通り」とも揶揄されたダウンタウンのアルバーニ通りは日本人ツーリストのメッカとなったのです。

ところがバブル崩壊で日本人旅行客は激減、土産屋やツーリスト向けレストランはことごとくなくなり、日本人通りだったアルバーニ通りは今や誰もが知るハイブランドの店がずらりと並ぶ高級ブティック街と化してしまいました。

私は24歳の台湾系女性が指揮を執るコミュニティイベントを10月に開催するための日系チームの代表を務めています。このイベントは日本を含む6つのコミュニティが主導して出店とそれぞれのエスニックのステージショーを繰り広げるイベントで、究極の目的はいろいろなコミュニティが手をつないで輪を広げましょうというもの。

ところがこういうイベントは日本人はおおむね無関心だったのですが案外関心を持ってくれたのがバンクーバーに来たばかりの若い層で日系チームも私を除き全員20代で組成するつもりです。

海外日系コミュニティがなぜ凋落したのでしょうか?これは分かりやすい理由です。昔は日本食もそう簡単に手に入らなかったし、英語環境もあり情報も少なかったのです。だから同じ言語をしゃべる人たちが寄り添うようにして暮らしたのです。コミュニティペーパー(日系の情報紙)は貴重な情報源でした。海外では日本人はマイノリティであってそれゆえにコミュニティの中で自活する必要があったのです。

ところが便利な時代がやってきて、日本食は今やアジア系スーパーのみならず、一般スーパーマーケットでも割と手に入るようになっています。情報は言うまでもなし。となれば寄り添うようにひっそり暮らす、というイメージから個々がそれぞれのライフをエンジョイする時代になったとも言えます。物理的裕福だけでなく、精神面な裕福ともいえるのかもしれません。

これは日系コミュティの接着力が剥離していくようなもので、趣味や何らかの共通のインタレストで一部の日本人が細胞分裂するような形になり、全体としてのコミュニティ力は無くなってしまうのです。考えてみてください。ここに住む人は北海道から沖縄までいろいろな出身のばらばらの人生背景の人たちです。共通点は日本人とか日系人といったブラッドだけ。それだけでは今の世の中、皆が折衷しながら仲良くするというのは困難でコミュニティ脱落者続出ということになるのです。

特に日本人は思想的自由度が高いために性格が合うかどうかで判断しやすくなります。このあたりが海外の日系コミュニティが凋落しやすい特徴ではないかと思います。リトルトーキョーが名ばかりになりつつあるというのはそう考えるとうなずけるのです。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年7月28日の記事より転載させていただきました。