パリ・オリンピックの開会式は、マリー・アントワネットの生首という悪趣味な演出で開幕したが、驚いたのはこれをほめる日本人が多いことだ。フランス人がフランス革命を美化するのはしょうがないが、日本人が美化するのは世界の笑い物である。
フランスがフランス革命を心底誇りに思っていることがよくよく伝わった。血の革命で勝ち取った自由を、ゴシックメタルな攻めの演出で体現したのも筋が通ってたし、パフォーマンスとしてレベル高すぎ。…
— 菅野志桜里 (@ShioriYamao) July 27, 2024
フランス革命は「自由を勝ち取る革命」ではなかった
「血の革命で勝ち取った自由」というのは、たぶん菅野氏が子供のころ学校で教わった話だろうが、フランス革命前にも言論の自由や結社の自由はあった。それは何より1789年に三部会が招集され、そこに選挙で選ばれた一般市民の代表が参加したことで明らかだ。
争点は自由でも平等でもなく、税制改革だった。当時のブルボン家は絶対王制とはほど遠いもので、各地方の「社団」は度量衡までバラバラで、地域を超えた取引もできなかった。社団は江戸時代の藩のような独立国家で、国王には実質的な徴税権がなく、実効税率は5%程度しかなかった。
特にルイ15世が詐欺師ジョン・ローにだまされ、紙幣を大量に印刷して財政が破綻し、ハイパーインフレになった。その後を継いだルイ16世は、免税だった僧侶や貴族にも課税しようと三部会を招集したが、何も決められなかった。これに反発した民衆が暴動を起こしてバスチーユ牢獄を破壊したが、そこには政治犯はいなかった。
革命派も立憲君主制を想定していた
当初は革命派もイギリスのような立憲君主制を想定しており、1791年憲法では国王が拒否権をもっていた。ここでは国民主権がうたわれ、税制も議会で決めることになったので、ここで終われば、大きな内戦もなく立憲君主制に移行していたはずだった。
ところが全国からパリに集結した革命勢力が1792年にオーストリアに宣戦布告し、戦争が始まった。当時のオーストリアは大国だったが、革命勢力がすべての国民を身分や年齢などに関係なく将軍になれる国民軍に組織したため士気が高く、フランス領内に侵入した敵国を駆逐した。
この戦争の混乱の中で王制の廃止が宣言され、1793年ルイ16世に死刑が宣告されたが、罪状は反革命勢力と結託したというだけだった。その後マリー・アントワネットにも死刑が宣告されたが、その罪状はほとんど何もなかった。
こうして国王と王妃を処刑したため、革命はコントロールがきかなくなり、革命勢力が王党派とみなした人を裁判なしで何千人もギロチンにかける恐怖政治が始まった。
戦争も恐怖政治も必要なかった
この経緯をみればわかるように、立憲君主制にする改革には国王も同意していたので、革命は1791年憲法で実質的には終わっていた。国王を処刑する必要はなく、まして王妃アントワネットには何の責任もなかった。
柴田三千雄氏なども指摘するように、財政の破綻した社団国家が崩壊したという点で、フランスと日本はよく似ているが、フランス革命では約200万人(ナポレオン戦争を入れると500万人)の死者が出たのに対して、明治維新では(西南戦争を入れても)3万人余りしか死んでいない。
これを「中途半端な上からの革命」という人がいるが、明治維新は名誉革命に近い「普通の革命」だった。むしろフランス革命のほうが異常で不要な暴力革命であり、これを典型的な「市民革命」として理想化したことが、ロシア革命などのもっと悲惨な革命を生んだのだ。
日本の左翼がいまだにフランス革命を理想化している背景には、こういう社会主義のなごりがある。それを模範として「民主主義を根付かせようと奮闘」する立憲民主党などの左翼勢力にはお引き取り願いたい。