バングラデシュで大きな政変が起こった。2009年以来15年(第一次政権からあわせると通算では20年以上)にわたって首相として高い経済成長を主導したシェイク・ハシナ氏が、騒乱の中で辞任して、インドに亡命した。
バングラデシュ陸軍のワケル・ウズ・ザマン参謀総長が、国民に対するテレビ演説を行い、暫定政府の設立を発表した。モハンマド・シャハブッディン大統領と協議した上で、与党と野党の双方を含めた暫定政府が、総選挙までの期間を管理することになる見込みだという。
バングラデシュでは7月に、公務員採用枠の廃止を要求した学生らが大規模な抗議活動を始め、それが広範な反政府運動に発展していた。その過程で、警察と反政府デモ参加者とが衝突し、双方で死者数が280人を超えたと報じられている。負傷者も多数だ。暴徒化した人々が、首相公邸にも押しかける中、ハシナ首相が退陣を決めた。
日本では、どちらがより親中国か否か、といった見方で対立の構図を理解しようとする向きもあるようだが、バングラデシュにとって中国は無視できない隣国の超大国であるとはいえ、伝統的にはインドやパキスタンとの関係、そしてそこに深く関わる宗教問題が、より重要だ。
特に今回の政変の背景には与党アワミ連盟と、野党バングラデシュ民族主義党(BNP)の主要人物の間には、1971年の独立戦争以来の確執がある。まずは伝統的な確執の構図がどのように展開していくかを見極めたうえで、現代国際情勢との連動を分析していくべきだろう。
ハシナ氏は、「国父」とされるシェイク・ムジブル・ラフマン初代・第4代大統領・第2代首相の娘である。アワミ連盟は、ムジブル・ラフマン氏が設立した政党だ。
パキスタンからの分離独立戦争であった1971年バングラデシュ独立戦争は、パキスタン軍の凄惨な弾圧によって約300万人もの犠牲が出たとも言われる(ただし詳細はわかっておらず犠牲者数は確証されていない)巨大な戦争であったが、ムジブル・ラフマン氏は、この時の独立運動を指導したことによって「国父」とされる人物となった。バングラデシュ各地に銅像や肖像画、及び記念施設が存在する。
東パキスタン=バングラデシュの独立にあたっては、最終的にはインドの軍事介入が、帰趨を決した。本来は、イスラム教徒が多数派を占める地域であったため、それまで「東パキスタン」は、パキスタンの一部とされていた。しかし1971年の独立戦争の経緯から、バングラデシュにとって、ヒンドゥー教徒が多数派集団であるインドの存在が決定的に重要となった。
ただしムジブル・ラフマン氏は、1975年に暗殺される。外国にいたシェイク・ハシナ氏は、その後しばらくは亡命生活を余儀なくされた。BNPの創設者であるジアウル・ラフマン氏も、大統領の任期中の1981年に暗殺されている。
なおその後にBNP党首となったベグム・カレダ・ジア氏は、ジアウル・ラフマン氏の未亡人である。BNPを率いて、二度首相に就任したが、シェイク・ハシナ氏が率いるアワミ連盟が政権を握ってからは、収賄容疑で逮捕・収監されていた。ただし今回の政変で、、モハンマド・シャハブッディン大統領から恩赦を受けたようだ。
伝統的には、アワミ連盟がよりインドに近く、BNPの方がパキスタンに近いと理解されている。だが本質的には、独立以来の政治史からわかるように、凄惨な独立戦争を、軍事的に乗り切った歴史的経緯から起因する確執が、いまだに深刻だ。軍の権威が強い、ということが最も重要な点である。そこに長年の二大政党の確執がかかわり、さらにその背後に南アジアにおけるインドとパキスタンの確執が関わる。
(余談だが、私はバングラデシュを何度も訪問しているが、政府招聘の仕事で行って空港で軍服を着た者に迎えに来てもらったりすると、手続きのための長蛇の列などを全て飛ばして外に出て、武装した車輛でホテルまで送迎してもらったりする。)
今回の政変の引き金になったのは、独立戦争時の功労者の家族(子孫)に公務員雇用の特別枠を与え続ける措置についての争いであった。これは独立戦争の歴史が、現在の政治権力構造にも深くつながっているバングラデシュの国家構造に特有の深刻さを持つ問題であったので、大きな争いとなった。50年以上前の独立戦争の歴史が、画期的な経済成長の恩恵が国民に行き届いているとは言えない社会構造との間に、大きな矛盾をきたしていた、とも言えるだろう。
現在のバングラデシュの人口動態を見ると、20歳前後の人口が一番大きくなっている。約1.7億人の人口の多数を若年層が占める。人口動態論的に、社会変動が起きやすい構造になっていたことは間違いない。そして経済成長し始めた国の実情の中で、新たな多数派世代のエリート層となるべき大学生層に、それにみあった職がない(独立戦争時からの歴史的経緯による既得権益層が経済成長の果実も独占し続けている)という感覚が、特に今回の政変を引き起こした不満の爆発になったと言える。
なお日本は、バングラデシュをいち早く国家承認して以来、友好関係を維持している。23年には、その関係を、「戦略的パートナー」として位置付けて重要視している。実は現在の2国間関係発展の柱は、労働力だ。人口激減している日本にとっては、優秀な若年労働者を欲しているが、経済成長にあわせて教育水準も向上しているバングラデシュの豊富な若年層が魅力だ。人口爆発に悩むバングラデシュ側も、日本への人材提供を前向きにとらえている。
戦略的パートナーシップに関する日バングラデシュ共同声明(2023年4月26日)
つまり日本のバングラデシュへの「戦略的パートナーシップ」の動機は、今回のバングラデシュの政変の社会構造的事情と、大きく関わっている。
もちろんこの地域の地政学的観点から見たときの重要性も、非常に大きい。ベンガル湾に関わる権益にも、日本は多大な関心を持っている。
バングラデシュの政変を見て、短絡的な図式化を振り回した理解で、安易な評価をすることは、禁物である。何が起こっても、バングラデシュは、日本にとって重要である。長期的な視野に立って安定的な関係を維持していくことを、何よりも重視していかなければならない。