天才は必要であるが…

ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(1788年-1860年)の言に、「実務的な生にとって、天才は、劇場での遠眼鏡よろしく、必要なものである――Für das praktische Leben ist ein Genie genauso brauchbar wie ein Teleskop im Theater」があるとされています。此の「実務的な生」とは一体何なのでしょうか。国語辞書を見ますと、実務とは「実際の具体的な仕事」と書かれています。そもそも生に対し、実務的とか非実務的とかは大体あるのでしょうか。そこが私には全く理解できず、また誰しも上記邦訳では分からないのではないかと思います。

「劇場での遠眼鏡」云々関係なしに「天才は、必要なものである」か否かと言うと、それは当然必要だと思います。ひょっとしたら天才なくしては、文明の進歩は齎されないのかもしれません。医学の領域で述べますと、例えば「種痘:しゅとう――痘瘡に対する免疫をつくるための予防接種」を発明した、エドワード・ジェンナー(1749年-1823年)などもその天才の一人でしょう。人類の健康増進に大変寄与した様々な抗生物質やステロイド剤にあっても、やはり膨大な研究の積み重ねの上に何処かの時点で天才が生み出したことと言っても過言ではないでしょう。

あるいは物理の領域で言えば、重力を例に考えますと、アイザック・ニュートン(1642年-1727年)の万有引力の法則も、アルベルト・アインシュタイン(1879年-1955年)の一般相対性理論も天才でしょう。天才が存在するがゆえ色々な事象が明らかになって行くわけです。ニコラウス・コペルニクス(1473年-1543年)により、地球中心説「天動説」が太陽中心説「地動説」へと大転換したのもその一つに挙げられましょう。

何れにせよ、冒頭の一文「実務的な生にとって、天才は、劇場での遠眼鏡よろしく、必要なものである」同様に、世に日本語訳された西洋哲学の書の大部分が極めて分かり難いように思います。例えば数学であれば、数式で表しますから分かる人が見たら分かります。しかし哲学というのは、そう簡単ではありません。翻訳するに、本当の意味を知り最上の言葉を選ばねばならないのです。

私は嘗て此の「北尾吉孝日記」で『人を説得する』という中で、「分かり易い話し方とは簡単な言葉で自分の言いたい事柄を上手く説明出来ることだと思います。自分が良く分かったことは噛み砕いて人に説明出来るようになりますから、他人が分かりにくいということなら、自分が本当に分かっていないのではないでしょうか」と述べたことがあります。

何事によらず、普通の人に分からなければ駄目なのです。取り分け哲学の類こそ分かり易さを追求し、人に分かるようにしなければなりません。何か分からなくすることが哲学的かの如く錯覚していたら、とんでもない話です。それでは、人格を陶冶し続けた先哲達も浮かばれませんね。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年8月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。