今月の8日に、ぶじ愛媛県の伊予西条市で登壇させていただいた。歓迎してくださった地元の学習塾「伸進館」のみなさま、および共演の先生方、改めてありがとうございます。
実は前月に体調を崩したこともあり、なるべくゆったりした旅程を組むことにして、前日は道後温泉(松山市)に宿泊していた。で、そこで狙っていた郷土料理があったのだけど、たまたま旅館の夕食の一部に最初から入っていて、こちらもありがたかった次第である。
ヘッダー写真のとおりの「さつま飯」。愛媛といえば鯛飯が名物だが、さつま飯は焼いた鯛の身をすりおろして麦みそやだし汁と混ぜ、ペースト状にして白米にかける。宮崎県の冷や汁に、より濃いシーフードビスクを足した感じと呼べばいいか。
伊予なのになぜ薩摩めしかと思うが、元は宇和島など、九州に近い西南部の漁師めしなので、農水省によると「薩摩国(鹿児島県)から伝わったいう説や、だし汁がよくなじむよう茶碗によそったごはんを十字に切った見た目が、薩摩藩の島津家の家紋のようだから」という説があるそうだ。
実は私、昔から「働く民衆の作ってきた伝統料理」に弱い。とくに漁業のように、自分のいまの生活から遠い生業の中で生まれてきたものに弱い。そんなわけで、晩年の山本七平が幼少期(戦前)の神奈川県久里浜の漁師めしを振り返った描写など、読むだけで涎を抑えるのに苦労してしまう。
おジイさんは、〔船上で釣ったばかりの〕アジの頭とはらわたとゼニゴケをとり、いきなりこれを出刃包丁で叩き出した。骨もヒレもそのままである。そしてグジャグジャになったアジを丼に入れ、味噌を少し入れてこねると、水筒から番茶を少し入れてかきまわす。
(中 略)
まるでお茶漬を食べるように、お茶の味噌汁にまざったアジを食べている。私もまねをして口に運んだ。そして思わず「おいしい」と声をあげそうになった。取りたての魚は生ぐさくないし、骨も固くない。それが味噌とお茶にまざった味は絶品だった。
『昭和東京ものがたり』単行本1990年
ライブラリー16巻、376頁
(強調は引用者)
もっとも、伊予のさつま飯は魚を「焼いた上で」ほぐして汁に仕立てるから、漁師めしでも調理に時間がかかる。なので、実はさつまの由来は薩摩でなく「佐妻」だとする説もあり、旅館もそちらの表記を採っていた。旦那ないし子供が事前に仕込み、後は白米にかけるだけの状態にして、忙しい妻(母)をサポートする飯、という趣旨だ。
もしそうなら本邦初(?)のフェミニストフードかもしれないが、私たちは稲作農業を「日本の伝統」だと思い込む癖がある分、異なる生業から育ってきた文化から、予想外に「新しい」暮らしの息吹を感じることも多い。
たとえば沖縄本島南部に糸満という漁業地があるが、昔から女性も行商に出て売り上げを「自分の財産」とする風習があったため、明治末~大正期には「男女同権で個人主義」の進んだ地域として採り上げる論説もあり、裏返って「糸満漁民は人種的にも欧米系」とする俗説まで流布していた史実は、だいぶ前に論文にまとめたことがある。
昭和の保守論壇誌のドンだった山本七平に、意外なほどマイノリティとしての繊細な感性が備わっていることには、キリスト教の信仰や戦場での過酷な体験など、いくつかの理由がある。しかし最も見落とされがちなのは、両親ともに和歌山(紀南)の捕鯨文化の中で育った漁民の出身で、本人も米食に思い入れがなかったことだろう。
私と妹はモチが嫌いで白米の御飯も嫌いだった。モチは今では全然食べないが、子供のころお正月には、お義理のように少しは食べる。ところが妹は頑としてモチを拒否し、みながお雑煮を食べている傍らで、一人でトーストを食べており、「妙な子だな」とか、「お嫁に行ったら困りますよ」とか言われていた。
妹は若くして世を去ったが、「御飯なし」は少しも苦にせず、「留学向きだね」などとも言われていたから、生きていれば今の私と変わらなかったであろう。私は一生「コメのメシ」抜きで一向に苦にならない。
347頁(改行は引用者)
先日のホルダンモリさんの番組で呉座勇一氏とも議論したが、この山本とぴったり同じ感覚で日本社会の全体像を描いた学者は、意外にも網野善彦である。こちらのテーマも病気の前に、だいぶ掘り下げて文字にしている。
日本は遅れている、とか、逆に日本の伝統こそ神である、みたいに言う人ほど、自国のマイノリティが持つ豊かさを無視していることが多い。今後そうした人がなにか言ったら、「あんさんはあらゆる日本をご存じなんでっかぁ? 山本七平や網野善彦より、あんさんの方が日本に詳しいんでっかぁ?」とあしらって相手にしないことが、ダイバーシティとSDGsへの道だろう。
P.S.
山本七平の日本論については、こちらもどうぞ。彼のように「のんびり考え、生きる」ことの大事さを、教えてくれる思想家も少なくなりました。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年8月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。