プーチン大統領が言う「10月1日」の意味:米国大統領選挙そしてBRICS首脳会議

ウクライナのクルスク侵攻作戦について議論が華やかだ。これまで「ウクライナは勝利しなければならない」と主張してきた日本の大多数の主流派の軍事専門家や国際政治学者の方々は、一斉にウクライナの行動を称賛した。他方、私自身は、作戦の効果について疑念を抱いている。

停戦機運の「成熟」に抵抗したウクライナ――クルスク攻勢という冒険的行動はどこからきたか:篠田英朗 | 記事 | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト
クルスク攻勢の重要な留意点は、東部戦線などの劣勢に苦しむウクライナ側が、あえて停戦を遠のかせる軍事行動をとったことだ。停戦になびくことを拒絶し、むしろ戦争を継続させるための作戦を遂行した。ザートマンの「成熟理論」に即して言えば、「成熟」状態が成立することに抵抗したのだ。当事者が非合理な覚悟で戦争継続を望む限り停戦機運は...

「プーチン大統領を一泡吹かせてやったので痛快だ」というような心情と、「プーチン政権はこれで崩壊する」というような根拠不明な予測が、混在している印象がある。

また、国境付近のわずかな面積とほとんど住民がいない避難後の過疎地帯をウクライナ軍が占拠している状態が「二週間以上も」続いている、という事実の観察から、これで広大な東部地域でのロシア軍の進展を止め、さらにはロシアと占領地の交換交渉もすることができるはずだ、という大胆な期待までが引き出せるかも、私は疑っている。

それにしてもウクライナ「応援」派とアンチ・ウクライナ派のSNS上での戦いは、二年以上にわたって、かなり感情的な人格攻撃が飛び交うレベルになっており、非常に危険な話題になってきている。

情勢分析については、冷静になりたい。

クルスク情勢をめぐり、プーチン露大統領が10月1日までにクルスク州からウクライナ軍を駆逐するよう露軍に命じた、と報じられている。これは何を意味しているだろうか。

第一に、ロシアは、数日単位でのウクライナ軍の駆逐を目指していない、ということだ。州都クルスクと、クルスク原子力発電所に向かうウクライナ軍の北進は止めた、という理解にもとづく方針だろう。ロシアにとって、分散したウクライナ軍の制圧は、もう少し時間をかけて行う目標となった。

ウクライナ軍も、北進できなかった時点で撤退を決断することなく、国境線にそって東西にほぼ無人と思われる集落や山林部などへと拡張する判断をした。クルスク攻勢は、単なる電撃的な奇襲攻撃ではなく、一つの新しい戦線を作り出した、ということである。

ロシアは、東部地域から主力部隊を移すことなく、クルスクでの戦線に対応する方針のようである。実際に、東部戦線で、引き続き戦局を有利に進めている。その前提で、クルスクに展開するウクライナ軍に対抗する兵力を整備する、ということである。ここまで来ると、ウクライナ軍も安全にウクライナ領に撤退することは容易ではない。

「二週間以上にわたってウクライナ軍はロシア領に展開できた」という言説は、ウクライナ軍が北進を断念して、東西の国境地域に分散展開した時点で、あまり意味がなくなった。今後の推移を数カ月単位で見守っていかなければならない。

第二に、それにもかかわらず、プーチン大統領は、あと1カ月余りでのクルスク州に展開するウクライナ軍の駆逐を目標とした。しかしウクライナ側は、クルスク攻勢に大きな意味を見出している。5週間程度のうちのウクライナ軍の駆逐は、ロシア軍関係者にとっては、必ずしも長い期間の設定ではないだろう。

もっともプーチン大統領が、10月1日という目標を公にしているわけではなく、これを伝えた報道の信憑性や細部の事情は不明である。軍事的には、冬になる前に、といった考えもあるかもしれないが、11月になったら全てが止まる、というわけでもない。一つの時間的目標の目安である。

第三に、時間的目標の背景には、したがって、政治的配慮があると想定することが可能である。ウクライナ側は、アメリカの大統領選挙を強く意識している。ロシア側もそうだし、なんといってもウクライナがアメリカの武器支援に大きく依存していることを知っている。

ウクライナは、民主党ハリス候補に有利になるように、アメリカの大統領選挙の投票日まで華やかな軍事的成果を見せたい。これに対して、ロシアは当然それを潰したい。そのため11月のアメリカの大統領選挙よりも前に、確実に効果を投票日に及ぼすことができる10月までには、ウクライナ軍のクルスク攻勢を駆逐したい、と思うだろう。

よりロシア側の視点に即して見てみたときの10月の大きな政治日程は、10月22~24日にロシアのカザンで開催予定のBRICS首脳会議であろう。プーチン大統領が、BRICS首脳会議開催前に、クルスク戦線のめどをつけておきたい、と願うのは、自然である。

10月のBRICS会議は、今後の国際情勢を分析するうえで、非常に重要な意味を持つものとなる。ロシアで開催される、今年になって正式加入した5カ国を含めた拡大BRICSの首脳会議として初めての開催になる、40カ国以上とも言われるBRICS加入申請中の諸国の取り扱いが注目される、といった事情もある。

だが本丸中の本丸の課題は、BRICS共通決済体制の導入などを通じた、国際的なドル決済体制への挑戦を、軌道に乗せられるかどうかである。中東の四つの主要国を同時にBRICSに加入させた決定も、原油取引におけるドルの覇権的地位に挑戦したい意図をBRICS諸国が持っているからだ。昨年からのガザ危機は、イランの存在感を高め、サウジアラビア、UAE、エジプトが、イスラエルから離れてアメリカに不信感を持つ土壌を作り出した。政治的機運は高まっている。

2022年にロシアがウクライナに全面侵攻をした際、アメリカを中心とする欧米諸国は、空前の規模の経済制裁でロシア経済を痛めつけることによって、プーチン大統領の野心を挫く、と力説していた。これが大言壮語でしかなかったことが今日では自明になっており、欧米諸国は物価高に苦しみながら終わりのないウクライナ向け武器支援への対応を要請され、多数の諸国で右派勢力が台頭する混乱に苛まれている。

ロシアに対する経済制裁の目玉は、SWIFT決済体制からロシアを追い出す、という金融制裁であった。だが、ドルを通じた決済ができなくなったロシアは、欧米諸国の期待通りには苦しまず、別の決済方法による迂回策を広げ続けてきた。

アメリカのほうは、現在、対ロシアだけでなく、38もの世界中の「標的」に対して、金融制裁プログラムを無期限で運用している。基軸通貨と言われるドルの運用管理を担っている超大国だけに可能となる政策だ。しかし、金融取引は信用決済である。一方的な金融制裁を乱発し続ければ、どこかで飽和点が来るはずである。

ただドル決済体制が今後については、経済の専門家の間でも意見が分かれる。信用取引の話であるので、どうしても予測は難しい。

もっとも、人民元がドルに完全に取って代わることはない、暗号資産は基軸通貨になりえない、BRICS共通決済体制が世界中に広がるはずはない、といった意見は、いささか的外れである。BRICS諸国は、「多元的」な国際秩序を標榜しており、ドル決済体制への挑戦は、ドルに完全に取って代わる何ものかの登場と、同じではない。

ドルの地位の命運は、分断が深刻化している現代国際社会において、最も深刻で甚大な構造的な変化をもたらす可能性のあるアジェンダである。そして、少なくともロシアは、10月のBRICS首脳会議を、一つの大きな山場と見ている。時間軸を意識しながら、ロシア・ウクライナ戦争を見る場合、こうした国際政治の構造的な動きも意識しておく必要がある。