カトリック教会の隠蔽体質のルーツは

ローマ・カトリック教会では過去、現在も数万件の聖職者による未成年者への性的虐待事件が発覚している。教会指導部はその事実をこれまで隠蔽してきた。

聖職者の性犯罪件数は6桁に及ぶ。この事実一つをとっても、教会の聖職者による性犯罪は重大犯罪と言わざるを得ない。にもかかわらず、「ローマ・カトリック教会は反社会的な組織犯罪団体」とは呼ばれない。数件の民事訴訟を抱える新興宗教団体に対しては厳しく追及するメディアもカトリック教会の性犯罪問題について沈黙、ないしは無視してきた。

ジャニーズ事務所の性犯罪問題では連日、報道した日本のメディアはキリスト教会の性犯罪問題では過去、ほとんど報道してこなかった(「なぜ人は隠蔽するのか」2023年9月15日参考)。

そこで事実関係を客観的に総括する人工知能(AI)のChatGPTにカトリック教会の聖職者による未成年者への性犯罪問題について意見を聞いてみた。

以下、その回答だ。

ローマ・カトリック教会を反社会的な組織犯罪グループと呼ぶことは、非常に複雑で議論を呼ぶ問題です。この問題を理解するためには、いくつかの重要な要素を考慮する必要があります。

1.教会の構造と役割
ローマ・カトリック教会は世界中に広がる宗教団体であり、何億人もの信徒に精神的な指導を提供しています。歴史的にも文化的にも、多くの社会で重要な役割を果たしてきました。教育、医療、慈善活動など、多くの社会的貢献をしていることも事実です。

2.性的虐待事件の深刻さ
しかしながら、カトリック教会の聖職者による未成年者への性的虐待事件は、非常に深刻な問題です。これらの事件は何十年にもわたって続き、数千人もの被害者が出ています。さらに、教会指導部がこれらの事件を隠蔽し、加害者を保護するために被害者を沈黙させてきたという事実は、極めて問題視されており、信頼を大きく損なっています。

3.教会としての責任
これらの行為は教会組織の一部によって行われたものであり、組織全体が犯罪的な活動に加担していたことは否定できません。しかし、教会全体を反社会的な組織犯罪グループと呼ぶことは、宗教的な指導や信仰を真剣に守る多くの信徒や聖職者に対して不適切かもしれません。なぜなら、多くの信徒や聖職者はこの問題に直接関与しておらず、むしろ被害者を支援し、教会内の改革を求めています。

4.法律的観点
法律的には、組織犯罪グループとは特定の犯罪行為を計画し、実行するために結成された団体を指します。カトリック教会はそのような目的で設立された組織ではなく、むしろ一部のメンバーが犯罪行為に関与したという方が正確です。

5.道徳的・倫理的観点
道徳的・倫理的には、教会が組織として犯した過失や犯罪は、非常に厳しく批判されるべきです。しかし、組織全体を反社会的と断じるかどうかは、慎重な検討が必要です。

結論
ローマ・カトリック教会を反社会的な組織犯罪グループと呼ぶことは、過剰な一般化の可能性があり、問題の複雑さを十分に反映していないかもしれません。一方で、教会の中で行われた犯罪行為やその隠蔽については、厳しい批判と法的責任が求められるべきです。

AIの回答は多分、正しいだろう。特に「教会全体を反社会的な組織犯罪グループと呼ぶことは、宗教的な指導や信仰を真剣に守る多くの信徒や聖職者に対して不適切かもしれません。なぜなら、多くの信徒や聖職者はこの問題に直接関与しておらず、むしろ被害者を支援し、教会内の改革を求めています」という部分だ。

教会を反社会的と断言することは、他の多くの平信者たちの「信教の自由」を蹂躙する危険性がある、というわけだ。それゆえに、欧米の大手メディアはカトリック教会を反社会的、組織犯罪団体としては糾弾しない。聖職者の性犯罪が多発し、無数の未成年者が犠牲となっているにもかかわらず、「信教の自由」は遵守しなければならない、という大前提があるからだ。

ところで、なぜ教会指導部は聖職者の性犯罪を知りながらそれを隠蔽したり、無視してきたのだろうか。一種の「組織防衛」ともいえるが、キリスト教の教えの中にそのルーツを見いだせるのだ。

ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900年)は「神は死んだ」と言明したが、それだけではない。その後に「私たちは皆、(神を殺した)殺害者だ」と言い切っているのだ。

キリスト教では人類始祖アダムとエバが神の戒めを破って罪を犯したと教えている。それを原罪と呼ぶ。原罪を背負わない人間は誰一人として存在しない。その意味で、人間は過去も現在も全てが同じだ。未成年者に性的虐待を冒す聖職者も、そうではない聖職者も同じルーツを背負っていることになる。

そこで性犯罪を犯す聖職者に対し、そうではない聖職者は批判し、罰することもあるが、それ以上に罪人の聖職者への理解、同情が優先するケースが多い。

前教皇ベネディクト16世も独ミュンヘン・フライジング大司教時代、教区で性犯罪を犯した神父を他の教区に人事することで隠蔽したという疑いがもたれた。すなわち、「われわれは全て罪人である」という教えが聖職者の性犯罪を隠蔽する時に働く教会側の心理的状況ではないか。教会では過去、現在も性犯罪を犯す聖職者へのエンパシー(共感)がその犠牲者へのそれより強い傾向が見られるのだ。

ニーチェは人間は原罪を背負う存在だというキリスト教の根本的教えを「私たちは全て、犯罪者だ」と表現した。皮肉なことに、「原罪を持つ存在」ゆえに、そして「私たちは全て犯罪者である」ゆえに、他者の罪に対して寛容な対応を強いられてきた。同時に、それは聖職者の性犯罪に対する教会側の隠ぺい工作の動機ともなってきたのではないか。イエスの「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、この女に、まず石を投げよ」(「ヨハネによる福音書」8章)という聖句を思い出す人もいるだろう。

ボリビアの詩人フランツ・タマーヨは、「究極の悪は、悪を見ていながら、口に出して言わないことだ」と述べている。未成年者への性的虐待を犯した聖職者や人間を見ながら、口に出して言わない「隠蔽」行為は究極の悪というのだ。原罪説を盾に他者の罪だけではなく、自身の罪をも隠蔽する聖職者にとって厳しい言葉だ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年8月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。