皇位継承のスペアとしての伏見宮家の歴史

京都御所に集った旧皇族一族
旧皇族とは、1947年(昭和22年)に皇籍離脱した11宮家51名の元皇族の総称
Wikipediaより

旧11宮家は男系では伏見宮家の系統だが、伏見宮家が皇位継承の歴史において継承権がないような扱いだったという印象操作をしている人たちがいる。たしかに、比較的、遠縁であるから、閑院宮とか有栖川宮のほうが相対的に有利だったかもしれないが、継承権は間違いなくあると自他共に認められてきたのである。

御三家のなかで水戸家の血筋は紀伊や尾張よりチャンスは薄かったが、最後は水戸の血統の慶喜になったが、そんなものである。

皇位継承を論じるなら、伏見宮家の歴史をきちんと踏まえて、骨太の議論をすべきだ。

一部の識者は、保守派の人たちの勇み足を捕まえて、嘘だといって論破したつもりでいるが、全体的な構図として見て伏見宮家の皇位継承権を否定するような話でない。

そのあたりについては『「女系天皇では解決できない」皇室評論家が旧宮家排除論に反対する理由』という記事を書いたので、詳しくはそれを見ていただきたいが、ここでは伏見宮家の歴史について深掘りして紹介しておきたい。

11宮家については、「旧宮家11家についての恣意的な議論を排除すべき」を書いたが、これはとくに、創設から幕末までを新たに作成した系図と共に論じた。

旧宮家11家についての恣意的な議論を排除すべき
皇位継承問題にいて旧宮家(旧皇族)が話題になっているが、それについての正しい知識をもってもらいたいということで、新刊『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)で詳しくきちんと論じている。今後の議論の土台にしていただければ幸いである。 ...

世襲宮家は、鎌倉時代から始まり、江戸時代に確立した。古代において皇族の範囲についての共通認識があったかどうかは分からないが、律令制では孫ないし曽孫までが王として扱われ、それ以下は臣籍降下(皇族がその身分を離れ、姓を与えられて臣下の籍に降りること)した。

しかし、嵯峨天皇の子が多すぎ、天皇の子でも臣籍降下させ源氏や平氏としたが、臣下になった後復帰した例もある。とはいえ、多くは出家させられた。

ところが、鎌倉時代に南北朝のもとになる大覚寺統と持明院統の両統迭立となり、さらに、それぞれの統で次男以下がごねたので、世襲宮家を創設して慰撫した。そして、北朝では後光厳天皇系と崇光天皇系が争い、後者を世襲で親王とするというで生まれたのが、現代の旧宮家の先祖である伏見宮家だ。

後光厳系が断絶したので、第102代の後花園天皇はここから出て、伏見宮家はその弟の貞常親王が継承して、そのまま現代に至るまで男系男子の血統が継続している。

戦国時代には、経済的余裕がなく、男子のうち皇嗣だけを結婚させて、残りはしばらく独身の部屋住みにしておいて、不要となれば出家させていた。そして、いざとなれば伏見宮もいたというわけである。

ところが、後陽成天皇の弟の八条宮智仁親王(桂離宮の創始者)は、豊臣家の継承者に予定されていたが、鶴松が生まれたため、秀吉は八条宮家(のちに桂宮家)を創設した。

また、南北朝時代からは天皇の正妻的な妃がいなくなっていたが、後陽成天皇は秀吉の猶子として入内した近衛前子を女御とし、12人もの子をつくらせた。皇位を継承した後水尾天皇以外もそれなりに扱おうということで、近衛家と一条家に養子に出したほか、好仁親王に高松宮家(のちの有栖川宮家)を創設させた。

このうち桂宮家と有栖川宮家は断絶して、新たに親王が継いで、伏見宮家とともに皇統断絶に備えた控えとして位置付けられた。現実には有栖川宮家からつなぎのような形だが、後西天皇が出ている。

また、伏見宮家では貞清親王が宇喜多秀家の娘を妃とし、娘は4代将軍家綱と紀伊藩主光貞の正室となり、8代将軍吉宗の正室も出し、幕府との関係を強化した。そのおかげで、いったん桃園天皇の親王が伏見宮を継いだが、、政治力で本来の伏見宮の血統に取り戻した。

新井白石は、三親王家でしかもしばしば一つは空席では常に適切な皇位継承者が準備できるとは限らないと心配して、徳川御三家のような安定した世襲宮家を増やした方がいいという方針のもと、東山天皇の子の直仁親王に閑院宮家を新設させた。

光格天皇即位の際、伏見宮貞敬親王も候補の一人だったが、父の邦頼親王が後桃園天皇を呪訴したりしたとのうわさもあったりして途中で消えたようだ。しかし、逆にいえば呪訴しているといううわさが朝廷で広まっていたということは、公家社会の常識として有力候補の一人だったことを裏付けている。

また、条約勅許問題で幕府と対立した孝明天皇は、貞教親王(伏見宮)・幟仁親王・熾仁親王(有栖川宮)の誰かへの譲位の構えを見せたが、これも伏見宮が男系で縁遠いことと関係なく皇位継承権者だと見なされていた証左である。もちろん、のちの明治天皇に取り戻すつもりだっただろうが、成人しなかったら伏見宮家に皇統は移ってもいいと孝明天皇は考えていたのである。

しばしば、伏見宮家は、南北朝時代に現皇室と分かれて没交渉などといわれるが、幕末に至るまでずっと皇位継承候補だったわけなのだから、有栖川宮家や閑院宮家と性格的に異なるわけではない。

そして、明治になると仏門に入っていた伏見宮邦家親王の子どもたちが一斉に還俗した。しかも、大正になって有栖川宮家は断絶し、大正天皇の子である高松宮殿下が祭祀を継承し、閑院宮家も伏見宮家から継承者を出した。

そのような経緯で、1947年に臣籍降下した11宮家はすべて伏見宮邦家親王の男系子孫なのである。