トランプからクルスク、そしてミアシャイマー

9月10日に開催された米国大統領候補者同士の討論会において、政策的立ち位置でトランプ氏とハリス氏の違いが鮮明になった争点の一つが、ロシア・ウクライナ戦争への態度であった。

ABCテレビの司会者がトランプ氏に「あなたはウクライナに勝ってほしいのか」という質問を繰り返した。これに対してトランプ氏は、「戦争が終わらせることがアメリカの利益だ」という回答をした。そこでメディアで、トランプ氏は質問に答えなかった、あるいは、ウクライナに勝ってほしいと言わなかった、という見出し記事が踊ることになった。

SNS界隈でも、ウクライナに勝ってほしい、という回答を言わなかったトランプは、プーチン大統領と同じ極悪人である、といった趣旨の言説が駆け巡っている。

司会者の「質問」は、いわば「踏み絵」であった。トランプ氏は、「ウクライナに勝ってほしいと言わない人物」となった。ハリス氏はもちろん「ウクライナに勝ってほしいと言う人物」である。同じとき、キーウを訪問したブリンケン国務長官は、全てがシナリオ通りであったかのように「われわれはウクライナに勝ってほしい」という言葉を強調した。

果たしてこのABCー民主党の連携プレーのような作戦が、米国民の過半数にアピールして、ハリス氏の票となっていくのかどうかは私にはわからない。だが確かに、トランプ氏が、ウクライナの勝利よりも、戦争の早期終結を優先したい人物であることは、明らかになった。

トランプ氏は一貫してこの立場をとっている。様々な評論家が異なる解釈をしている様子も見られるが、実はトランプ氏本人は全くブレていない。したがって本来であれば、「どうやって戦争を終わらせるのか」についても、質問がなされるべきだっただろう。

トランプ氏は、自分が大統領になったら、一日で停戦を導き出す、と豪語したことがある。最近は、どちらかというと、自分が大統領だったら、この戦争は起こらなかった、という点を強調する傾向にある。

これだけの大きな問題である。トランプ氏も、相当に考えたうえで、停戦について語っているだろう。だがどのような天才交渉者であっても、毎回必ずまとめあげることができる、ということまでは言えないだろう。

さらに言えば、事態は極めて流動的である。バイデン大統領が選挙戦から撤退する前、トランプ氏は支持率において、大きくリードしていた。さらに7月13日に銃撃事件も起こってトランプ氏の当選の可能性がさらに高くなったという時、ゼレンスキー大統領は、トランプ氏に電話をして、会って語り合いたい、ということを申し出た。アメリカの武器支援に依存しながら、戦争継続を通じた勝利の可能性に固執するゼレンスキー氏にとって、トランプ氏は大きな問題だ。

そこでゼレンスキー大統領が行ったのが、クルスク侵攻であった。日本の軍事専門家の多くは、この侵攻作戦を好意的に評価して称賛した。しかし私に言わせれば、極めて非合理的で、人命を軽んじた残念な作戦であった。

ウクライナの「クルスク侵攻」で浮き彫りになった、世界とは異なる「日本の言論空間の事情」(篠田 英朗) @gendai_biz
ウクライナ軍がロシア領クルスク州への侵攻を開始してから、約一か月がたった。初期の段階では、一般の方々のみならず、数多くの軍事専門家や国際政治学者の先生方の間でも、ウクライナの「戦果」を称賛する高揚感が広がっていた。今にして思うと、瞬間的なお祭り騒ぎのようだった。

クルスク侵攻作戦の前の戦局は、長期の膠着状態にあった。昨年の夏前にウクライナが仕掛けた「反転攻勢」が成果を出せずに終わった後、双方が甚大な被害を出しながら、決め手を打つことができない状態に陥った。

これは、紛争解決理論の観点から言えば、W・ザートマンの「相互損害膠着」による「成熟」が近づいた状態であり、停戦の機運が近づいてくる状態である。もしその状態のままトランプ氏が大統領になったら、事態は一気に停戦に向けて動いていっただろう。

この「成熟」の成立に抵抗したのは、ゼレンスキー大統領だった。アメリカの大統領選挙が実施される前に「成熟」を崩し、戦線を拡大させ、戦局を流動化させることを狙って、クルスク侵攻作戦を開始した。

停戦機運の「成熟」に抵抗したウクライナ――クルスク攻勢という冒険的行動はどこからきたか:篠田英朗 | 記事 | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト
クルスク攻勢の重要な留意点は、東部戦線などの劣勢に苦しむウクライナ側が、あえて停戦を遠のかせる軍事行動をとったことだ。停戦になびくことを拒絶し、むしろ戦争を継続させるための作戦を遂行した。ザートマンの「成熟理論」に即して言えば、「成熟」状態が成立することに抵抗したのだ。当事者が非合理な覚悟で戦争継続を望む限り停戦機運は...

この侵攻作戦は、ウクライナにとって、合理性がない。ウクライナのほうに不釣り合いな損害を出す結果を招く可能性が高い。

まず東部戦線の膠着が崩れ、ロシアが支配地域を拡大させ始めた。そしてここ数日、クルスクでもロシア軍の目に見えた攻勢が始まり、ウクライナに支配された地域を奪還し続けている。

人口6千人(占領時は避難後だったので住民200人程度だけしかいなかったと言われる)のロシアの片田舎の国境の町を守るために、1万人とも言われるウクライナの精鋭部隊が、目的の見えない、合理性の欠けた、包囲されて殲滅されかねない危険な作戦を遂行している。

何のために?

戦争を続けるためである。

ゼレンスキー大統領は、「成熟」の成立による停戦を拒絶したかった。そこで仮にウクライナのほうがより大きな損をするだけだとしても、貴重な自国兵士の人命及び装備が目的不明な非合理的な作戦で無駄に消耗されるだけだとしても、なお戦争の継続につながる行動をとることを選択した。

このゼレンスキー大統領の判断によって、過去1カ月余りの間で、ロシア・ウクライナ戦争は、大きく動き始めた。もはや7月の時点の戦局ではない。そしてアメリカの大統領選挙が実施されるまでの2か月の間に、何が起こるのか、極めて流動的で不安な状態になっている。

繰り返すが、全ては、ゼレンスキー大統領が、あらゆるリスクを度外視し、戦争を継続させる、という意思を貫徹させるために行った政策判断の結果である。

膠着状態を作り出すのは、簡単なことではない。相手がロシアという巨大な軍隊であれば、なおさらだ。「成熟」は、様々な要素が重なり合って、ようやく生まれてきた状態であった。

もしそれを当事者が何とか強引にでも崩そうとするならば、崩れるだろう。そして崩れてしまった後は、簡単には元に戻らない。簡単には「成熟」は、再び訪れない。

アメリカの政策に批判的な見解を持っていることで知られるアメリカのジョン・ミアシャイマー教授が、トランプが当選しても停戦をもたらすことはできないだろう、と語る動画が出回り始めた。ミアシャイマー教授によれば、ウクライナが敗北する以外のシナリオでは、この戦争は終わらない、という。

ミアシャイマー教授の言説を、私は目につく限りは追ってきている。ただ全てを把握しているわけではないだろう。したがってより詳細な言説の変遷はわからない。しかしミアシャイマー教授が、ここまではっきりとウクライナの敗北以外のシナリオでは戦争は終わらない、と断言しているのは、今までは見られなかったように思う。

もし、ミアシャイマー教授が、数カ月前よりも今のほうが、よりウクライナに悲観的な見方をしているとしたら、それはそういうことはあるかもしれない。トランプ氏が当選しても、事態の推移に大きな影響は与えない、ということになるかもしれない。

成熟は成立し始めていた。しかし、崩れた。次に、成熟が成立しうるのがいつになるのかは、誰にもわからない。

篠田英朗 国際情勢分析チャンネル」開設!チャンネル登録をお願いします!