昨日の記事で、石破茂内閣が、多数の防衛大臣経験者を要職に配置して、防衛関係の政策案件を推進する構えであるように見えることを書いた。
より具体的には「9条2項削除」論として知られる憲法改正案と、「アジア版NATO」と呼ばれている同盟改編案であろう。どうも両者は、石破氏の構想の中で、結びついているらしい。
昨日の記事では、石破氏が典型的な「憲法学通説」の憲法解釈を採用したうえで「だから改正が必要だ」と主張するタイプの改正論者であることを述べた。
石破氏も第二次安倍政権期の2015年平和安全法制成立の推進にあたっていたはずだが、実際には集団的自衛権違憲論への配慮の気持ちが見えるときがある。石破氏は、集団的自衛権は抑制的に使わなければならない、という主張を、各所で繰り返し行ってきている。
伝統的な憲法学通説の教科書では、日米同盟を嫌悪する立場から「集団的自衛権」を絶対悪としつつ、国連中心主義に合致する「集団安全保障」を善としている場合が多い。集団的自衛権は違憲だが、全ての国連加盟国が一致団結して取り組む集団安全保障なら憲法の平和主義の精神に矛盾していない(日本は武力行使については独自の制約があるが)、と日本の憲法学者が憲法学の教科書で説明している場合がある。
この考え方は、2015年平和安全法制に先だって導入された1992年国連PKO協力法の成立の際に、基本的に踏襲された。国連安全保障理事会の決議に裏付けられて集団安全保障の一環として行われる国連PKOであるならば、武力行使の範囲にさえ気を付ければ、日本も参加していい、という憲法解釈であった。
石破氏は、「アジア版NATO」は、「集団安全保障」の仕組みなので、憲法問題に抵触しない、といった主張をしているらしい。その理由は、こうした日本の憲法学通説の伝統であろうと思われる。
残念ながらこの議論は、日本の「憲法学通説」の範囲でのみ成立する机上の空論である。国際的には、破綻している。
NATOの存在を国際法で裏付けているのは、国連憲章第51条の集団的自衛権である。実態として、地域的な集団安全保障としての要素がある、という分析は可能なのだが、それはNATOの存在が国際法上は集団的自衛権によって裏付けられているという事実を変更しない。
国際法上の集団安全保障は、国連憲章第7章の強制措置のことであり、国連安全保障理事会決議をへなければ、発動されたことにならない。アジアの幾つかの諸国が自発的に結ぶ条約の加盟国をいくら増やしても、それはどこまで行っても集団的自衛権でしかない。NATOも同じであるので、NATOは集団的自衛権を根拠にして成立している組織でしかない。
さらに付け加えて言うならば、このような混乱は、憲法学は国際法学ではない、といった当然のことによって生まれている混乱ではない。憲法学通説が、政治イデオロギーを振り回して偏向した奇妙な議論を積み重ねてきたことによって生じた混乱である。
そもそも日米安全保障条約ですら、その前文で、国連憲章第51条の集団的自衛権を根拠として条約が成立していることを明示している。集団的自衛権を忌み嫌って、日米同盟を何か違うものに作り替えてしまおうとするのは、現行の条約体系をひっくり返す巨大な地殻変動を起こす革命的な政策である。石破政権の日本国内での支持率がどれほど高まろうとも、相手のあることなので、端的に言って、実現不可能だろう。
昨日の記事では、「War Potential」という連合国の行政用語の「戦力」という日本語への陰謀論的な翻訳を通じた、憲法学通説によるオリジナルな憲法典の曲解についてふれた。
憲法9条2項では、「交戦権」概念も論点になるので、今回は、これについても付記として、ふれておこう。
日本国憲法9条2項は、「国の交戦権は、これを認めない」と謳っている。注意すべきは、憲法は、「交戦権」を放棄する、と言っているのではなく、「認めない(will not be recognized)」、と言っている点である。
なぜ憲法は「交戦権」を認めないのか。理由は簡単である。そんなものは存在していないからである。
国際法において、「国の交戦権(憲法起草テキストにおけるthe right of belligerency of the state)」などという概念は、存在していない。存在しているはずがない。そんなものが存在していたら、国連憲章2条4項の武力行使の一般的禁止原則が、付帯的な憲章51条の自衛権と7章の集団安全保障の規定と合わせて、有名無実化してしまう。「交戦権」は、国際法で存在してはならない概念なので、日本国憲法は「これを認めない」と宣言している。
それではなぜ日本国憲法は、存在していない幽霊のような概念をあえて取り上げて、「これを認めない」と念押しする条項を作ったのか。
第二次世界大戦中の大日本帝国が、明治憲法の「統帥権」規定を根拠にして、国家には自由に宣戦布告して戦争を開始することができる権利がある、などと主張していたからだ。
たとえば、戦時中に『戦時国際法講義』(1941年) や『戦時国際法提要上巻』(1943年)を著した信夫淳平は、次のように説明していた。
国家は独立主権国家として、他の国家と交戦するの権利を有する。之を交戦権と称する。
国家の交戦権は、交戦に従事する者の行使する交戦者権とは似て非なるものである。
「開戦」の方式は、
当該国家の交戦権の適法の発動に由るを要すること論を俟たない。その権能の本源如何は国内憲法上の問題に係り、国際法の管轄以外に属する。
つまり信夫ら戦中の戦時国際法の解説者らは、自らが解説している戦時国際法に根拠がない「交戦権」を、大日本帝国憲法という国内法に規定された「統帥権」概念だけで、正当化しようとしていた。
こんなことを許したら、真珠湾攻撃も、日本の国内法だけを根拠にして、合法になってしまう。そこで連合国は、念のため、幽霊である「交戦権」について、「これを認めない」と国内法で宣言させることによって、戦中の信夫ら大日本帝国時代の学者の議論が復活するのを防ごうとした(篠田英朗『はじめての憲法』(ちくまプリマー)、篠田英朗『憲法学の病』などを参照)。
「交戦権」概念は、石破氏の苦闘にもかかわらず、集団的自衛権と集団安全保障の違いといった話とは、全く関係がないのである。
現代の安全保障政策は、的外れな憲法解釈論争に振り回されることなく、現実をふまえて、進めていくべきである。
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