首相になった石破茂氏と自民党総裁選で惜敗した高市早苗氏には共通点がある。1993年の政権交代で、自民党を離党して与党に移ったことだ。
石破氏は細川内閣ができたあと新生党に入党し、高市氏は「柿沢自由党」に入党して与党の一員となったが、いずれも新進党時代に離党して自民党に戻った。こういう「裏切り者」が首相になったのは、自民党の歴史始まって以来の出来事である。
「小沢政権は10年続く」と誰もが思った
その動機にも共通点がある。今後10年は「小沢一郎政権」が続くと考えていたことだ。彼らだけではなく、誰もがそう思っていた。霞が関でも「小沢シフト」を組んだ官庁が多かった。その代表が大蔵省で、斎藤事務次官は小沢氏と組んで「国民福祉税」をぶち上げた。
小沢氏の構想では、消費税を10%に上げて社会保障の財源とするとともに、小さな政府を実現して財政赤字をなくし、改革に反対する社会党をつぶすために小選挙区制を導入し、最終的には憲法を改正して日本を普通の国にする予定だった。
彼が自民党の幹事長だったとき書いた『日本改造計画』の編集長は大蔵省の香川俊介課長で、執筆は御厨貴、飯尾潤、北岡伸一、伊藤元重、竹中平蔵氏などの学者が分担した。それはサッチャー・レーガンに次いで日本も新自由主義で改革する具体的で一貫したプランだった。
しかし小沢政権(細川・羽田内閣)はわずか10ヶ月で崩壊し、実現できたのは小選挙区制だけだった。このとき渡辺美智雄氏や海部俊樹氏を党首に担ぎ出して自民党を分裂させようとした小沢氏の工作が、社会党の委員長を首相にする自民党の「まさかの戦術」に裏をかかれた。
1997年末には突然、新進党を解党した。小沢氏は自民党との「保保連立」を画策したのだが、それが党内に亀裂を生んでミニ政党が次々に新進党から離れた。自民党の打倒を唱えながら、くりかえし保保連立を画策する小沢氏の矛盾した行動が反発を招き、小沢氏にあこがれて細川政権に入った石破氏も高市氏も離党した。
31年前の改革案はまだ生きている
あのときこうしていたら…という「反実仮想」には意味がないが、あのとき渡辺氏が自民党を割って政権に入っていたら、あのとき首班指名で社会党が裏切らなかったら、石破氏や高市氏のような機会主義者がなだれを打って小沢政権に入り、自民党は二度と政権に戻れなかったかもしれない。
だが小沢氏の賭けが成功したのは、1993年だけだった。負け続けるギャンブラーについて行く人は少ない。石破氏や高市氏の仲間が自民党内に少ないのは、いつまた裏切るかわからないからだ。石破首相の記者会見では、さっそく今まで否定していた7条解散をやると宣言した。
小沢氏が31年前に出した改革案は、小選挙区制と消費増税以外は実現しなかった。それが今もすべて有効だというわけではないが、改革を先送りして財政バラマキや金融緩和などの「痛み止め」を打ち続けた結果、政府債務は膨張し、国民負担は激増し、成長率は低下し、日本経済は衰退途上国になってしまった。
石破氏と高市氏の「失われた31年」は、日本経済が衰退の坂を転がり落ちた時期と重なる。やるべき改革はわかっているのに、それはなぜ実現しないのだろうか。あす金曜から始まるアゴラ経済塾「日本経済は新陳代謝できるか」では、このような日本経済の隘路についてみなさんと考えたい(申し込みは受け付け中)。