イスラエルのイランに対する報復措置の実行が懸念されている。イスラエルにとっては、ガザ、西岸、レバノン、イエメン、イラク、シリアでの軍事作戦に重ねて、イランとの軍事的対立も激化させていこうというのだから、普通では考えられない状況にある。
しかし始めてしまった軍事作戦を終了させる前に、そしてアメリカの大統領選挙あるいは新大統領の就任前に、できるだけ優位な状態を作り出してしまいたい、それによって自身の国内政治での立場の強化を図りたい、という動機づけが、ネタニヤフ首相に強く働いてしまっている。
遂にフランスのマクロン大統領までイスラエルへの武器供給を止めるべきだと発言した。それにネタニヤフ首相が激しく反発し、「恥を知れ」、となじる演説を行った。同時に、イスラエル軍が、レバノンにあるフランス企業トタル施設を爆撃した。ネタニヤフ首相の心理状態も、かなり切迫してきているようだ。
かつてアメリカのリチャード・ニクソン大統領は、自分は非合理的で気まぐれだという印象を相手に意図的に与えて、相手方の不安をかきたてることを通じて、交渉を有利に進めようとしたとされる。
この考え方は、「狂人理論(madman theory)」と呼ばれる。ニクソン政権では、キッシンジャー補佐官/国務長官が、ある種の司令塔として機能していた。ニクソンの「狂人」性を、キッシンジャーが交渉で上手く活用する、という仕組みであった。
ニクソンに続いて「狂人理論」の観点から関心を集めてきたのが、トランプ前大統領だ。非合理的で気まぐれに行動する印象を、「取引」交渉に活用するのを、好んでいる。
トランプ前政権では、キッシンジャー氏に相当する人物は存在していなかった。ただワンマン企業の社長であったため、もともとトランプ氏は自らが直接的に交渉を指揮する仕組みを好んだ。大統領が「狂人」の役割と司令塔の役割の双方を担ったわけである。
この「狂人理論」のトランプ氏の本領発揮とも言える発言が、イスラエルのイランへの報復攻撃の可能性をめぐって、飛び出した。バイデン政権が、イランの核施設への攻撃を控えるようにネタニヤフ首相に働きかけているという報道をめぐり、トランプ氏が「それは間違いだ」と発言したのである。トランプ氏は「イランの核開発の脅威を考えれば、むしろ真っ先に核施設を狙った攻撃を仕掛けるべきだ」と主張した。
この発言は、メディアで大きく取り上げられた。多くは、トランプ氏はイスラエルの大規模報復を望んでいる、という論調で、トランプ氏の発言を紹介した。
果たしてそのメディアの理解が正しいかについては、留保が必要である。まず、トランプ氏が述べたのは、「核施設を攻撃しない」というメッセージを攻撃前にイランに送ることは間違いだ、ということだろう。常に過激な方法の選択肢を示しながら、交渉を進めるべきだ、という「狂人理論」的なトランプ氏のスタイルからすると、限定的な手の内を見せてから行動に入るのは、賢くない、ことになる。
加えて留意しておくべきなのは、トランプ氏は、決して大規模戦争を望んでいると言ったわけでも、イランを核兵器で攻撃するべきだと言ったわけでもないことだ。この機会に核施設の破壊を行うべきだという発言は、実は、それを行ったうえで限定攻撃にとどめて戦争の大規模化を防げれば一番いいシナリオだ、というニュアンスもある。
だが、イラン側も、核施設をイスラエルの攻撃から守るための万全の態勢を取っているはずだ。そこで、果たしてイスラエル側にそれをかいくぐって核施設だけを限定攻撃する能力があるのか、という点が問題になる。ドローンを駆使して市街地で暗殺攻撃をしたり、レバノン各地でポケベルを爆破させたりするのとは、次元が違う。
2022年に大ヒットした米映画『トップガン・マーヴェリック』は、「ならず者国家」が建設して稼働させようとしているウラン濃縮プラントを、主人公たちが戦闘機で破壊する作戦を中心に物語が展開した。この映画の中の「ならず者」国家は、中東の国のようだった。トランプ大統領は、まさにこの映画を再現する作戦行動をイスラエルがとることを止めてはいけない、ということを言っているわけである。
しかし、映画のような実施不可能な作戦を、イスラエル空軍が行えるとは、到底思えない。イスラエルは、かつて1981年に戦闘機を使ってイラクのサダム・フセイン政権が開発中だった軍事施設を破壊してみせたことがある。しかし今、それを最大警戒中のイランに対して行うのは、ほぼ不可能と思われる。
『トップガン・マーヴェリック』は、ドローンが航空攻撃の主流になり、パイロットたちの役割は軽視されてきた、という現代的な時代背景を、モチーフにしている。どれほどドローンが駆使されようとも、人間にしかできないことがある、というテーマにそった物語だった。
しかしイスラエル軍が、そのような発想にとらわれることは、全く想像できない。イスラエルは、ドローンによる標的殺害の方法を世界に先駆けて開発した国である。その方法を使って、イランの核科学者を暗殺してきている。したがってイランの防空システムを突き破るミサイルあるいはドローンによる攻撃を成功させるしか、方法はないだろう。
エリート・パイロットが現場で発揮する奇跡的な能力や判断ではなく、イスラエルの軍事力の技術的能力で、イランを圧倒するしかない。果たしてそれは可能なのか。
現在、ネタニヤフ首相は、必死の作戦立案をすると同時に、アメリカの参戦を期待しているだろう。アメリカが攻撃に加わってくれれば、事態は一変する。しかしアメリカの参戦の可能性はないだろう。
「狂人理論」が効果を発するのは、交渉に向けた計算と、能力の優位とがあるときのみである。今のイスラエルには、前者は決定的に欠落している。後者についても、イランに対して保持しているのかは不透明だ。「狂人理論」を駆使できない「狂人」は、まさに文字通りの「狂人」として立ち現れて、終わってしまうしかない。
ネタニヤフ氏は、「狂人理論」を駆使する戦略家なのか、単なる「狂人」なのか。近く明らかになろうとしている。
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