風船爆弾の正体:旧陸軍登戸研究所訪問記

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前回触れましたように、私はこの1年半ほど、東京世田谷から少し離れた川崎市麻生区百合丘に仮住まいしていますが、ここの近く、小田急線で2駅目の生田(いくた)のそばに、かつて旧日本軍の「陸軍登戸研究所」がありました。

前から一度その遺跡を見学しておきたいと考えていたので、9月の猛暑の一日、訪問してきました。今回はそのお話をしましょう。

秘密に包まれた登戸研究所

この研究所は、私が生まれた1937年(昭和12年)、つまり中国北京郊外の蘆構橋で日中戦争が始まった年に、大本営直轄の秘密の軍事技術研究所としてここに移転してきたもので、終戦と同時に廃止され、施設や備品などの大部分は証拠隠滅のため破壊、焼却されました。

旧陸軍登戸研究所を訪問する筆者
(2024年9月)

戦後、その広大な敷地は明治大学が買収し、現在は生田キャンパス(理工学部、農学部)となっており、その一角に「平和教育登戸研究所資料館」が2010年に開設され、さまざまな貴重な資料約6000点が5つの展示室に展示されています。

戦前から戦中にかけて、この研究所は、総力戦としての日中・日米戦争のための様々な諜報(スパイ)活動、防諜、謀略、宣伝(プロパガンダ)活動や、それらのための特殊技術の開発、さらに、細菌・化学兵器の開発、偽札・偽パスポートの製造などに従事していました。偽札は、中国の国内経済を攪乱するために実際に中国大陸で日本軍がばらまいたものです。

これらの中で、とくに有名なのは、日米戦争末期に開発された「風船爆弾」です。今の若い人たちは、日米戦争では、日本は、米軍のB29爆撃機による猛烈な空爆や原子爆弾で徹底的にやられ、一方的に甚大な損害を被ったので、もっぱら「被害者」だったという印象を持っているのではないかと思いますが、ところがどっこい、実は日本にもアメリカ本土を直接攻撃する計画がいくつかありました。その一つがこの風船爆弾です。

材料は和紙とコンニャク糊

今回見学した資料館の一室には、この風船爆弾の10分の1のレプリカが展示されています。実際に製造されたのは、直径10メートルほどの大きな風船で、その中に水素ガスを詰め、爆弾や焼夷弾を数個ぶら下げて、大気高層のジェット気流(偏西風)に乗せて、太平洋を横断し米国本土を攻撃しようとしたものです。

資料館展示の風船爆弾の模型(実物の10分の1)

風船の材料としては、和紙をコンニャク糊で何重にも張り合わせたもので、その作業には全国の女子学生が多数動員されました(ちなみに、私の郷里の近くの愛知県豊川市には当時東洋一と言われた海軍工廠があり、海軍用の機関銃、爆弾、銃砲弾などを製造していましたが、終戦直前に米空軍のB29による大爆撃を受け、工場施設は全滅、そこで働いていた工員や地元の女学生が多数死亡しました。正門の守衛として勤務していた私の父親も危うく死に損ないました)。 

約千発が米本土に到着

太平洋上空をいく風船爆弾

1944年秋から45年8月までの間に登戸研究所で製造された風船爆弾は総計1万発弱。千葉県一ノ宮と茨城県大津、福島県勿来の各海岸からアメリカ本土に向けて発出されました。

そのうちの10%程度に相当する1000個近くがアメリカ本土やアラスカ、カナダに到達したとされます。

これらの風船爆弾は、2昼夜半かけて太平洋を横断しましたが、夜になると大気高層では零下50度ほどの気温になり風船の高度が下がるので、積んでいたバラストを落として、軽くして高度を上げるなどの細かな工夫が施されていたようです。

そして米国の本土上空に達すると一定の高度で爆弾や焼夷弾を投下するような仕組みになっていました。

「戦果」は死者6名

問題は、これらの風船爆弾が実際にどれだけの「戦果」を挙げたかですが、確実な情報としては、米国西海岸のオレゴン州の山中に着陸した風船爆弾の爆発により民間人6名の死者を出したことが知られています。

オレゴン州空襲を伝える朝日新聞の記事(1942年9月17日付)

そのほか、ワシントン州リッチランドのプルトニウム製造工場(長崎原爆を製造したハンフォード工場)の送電線に引っかかり一時的に停電を引き起こしたり(このときは予備電源により原爆の完成に大きな影響は無かった由)、ほかのいくつかの場所で停電や森林火災を起こしたりと、全米各地の軍民の施設に数十件の損害を与えたことが明らかになっています。

風船爆弾による攻撃を知ったアメリカ陸軍の一部は、風船爆弾に細菌爆弾などの生物兵器を搭載している可能性を考慮し、着地した不発弾を調査する際に担当者は防毒マスク、防護服を着用したそうです。また、少人数の日本兵や特殊工作員が風船に乗ってアメリカ国内に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかったということです。

実際に日本陸軍内部では、爆弾の代わりに兵士2~3名を搭乗させる計画も検討されていたそうですが、実現する前に終戦になったということです。

米国政府による情報隠蔽

アメリカ政府と陸軍は、自国民がパニックに陥り、戦意に悪影響が出ることや社会混乱が起こることを恐れて情報操作を行い、国内のマスコミに対して風船爆弾に関する報道を一切禁止したようです。こうしたアメリカ側の隠蔽工作によって日本側では風船爆弾の具体的な成果を知ることができず、その効果を疑問視する声が軍部内にあったとされています。

1945年夏になると米軍の本土空爆が一段と激しくなったので、登戸研究所の一部は、長野県松代(まつしろ。そこの山中には、大本営や皇居、政府首脳部などの地下施設が建設されていた)の近くへ移転し始めていましたが、終戦ですべて中止されました。当時の混乱状況が想像できます。

こうして日本が、登戸で、乏しい資材をかき集めて必死に風船爆弾を製造していたころ、米国では、原爆製造のための「マンハッタン計画」が、桁違いに莫大な予算と資源を投入し、数千人規模の一流科学者を動員して進められていたわけで、今思うと、彼我の実力のあまりにも大きな格差に愕然とします。

物量の絶対的不足を精神力でカバーし、B29の攻撃に「竹やり」で対抗しようとした当時の日本人の姿には虚しさ、痛ましさを感じますが、そこに特攻隊員にも似た日本人の心意気を感じるのは、精神的な戦中派を自認する私の個人的な感傷かもしれません。

その他の米本土攻撃作戦

風船爆弾は、日米戦争末期の日本軍による苦肉の「奇策」でしたが、戦争の初期段階では陸海軍による米本土攻撃作戦が色々な形で行われました。

例えば、真珠湾攻撃の3か月後の1942年2月24日には、日本海軍の「伊号第17潜水艦」が、カリフォルニア州サンタバーバラの石油製油所への砲撃作戦を行ったことが記録に残っています。この攻撃は米国政府や一般市民に大きな衝撃を与えたとされています。なにせ、米本土が外国によって直接攻撃されたのは米英戦争(1812~15年)以来で、まさに前代未聞だったからです。

その後も日本海軍は潜水艦による西海岸への砲撃を累次にわたって行ったようで、米軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として、日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していたとのこと。

西海岸の一部の都市では、日本軍機による都市部への爆撃を恐れ、防空壕を作り避難訓練を実施したり、灯火管制で映画館やナイトクラブの夜間の営業停止、防毒マスクの市民への配布などを行っていたそうです。

このような日本軍の上陸に対する警戒は、太平洋戦線における戦局が米軍をはじめとする連合国軍の優勢になった1943年夏以降も続いたとのことです。

日本による原爆製造計画

原子爆弾と言えば、もっぱら米国の「マンハッタン計画」やそれを指揮した物理学者オッペンハイマーが有名ですが、実は日本にも原爆製造計画があったことは今や周知の事実です。

日本の原子物理学の父・仁科芳雄博士

陸軍は理化学研究所の仁科芳雄研究室に、海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に委託していましたが、肝心のウラン鉱石が十分入手できず、原爆製造には至りませんでした。

しかし、もし、仮に日本で原爆が完成したとしたら、それをどうやってアメリカ本土まで運んだか。現在では大陸間弾道ミサイル(ICBM)で打ち込むことが可能ですが、当時日本は制空権を失い、B29のような長距離爆撃機もなかったので、潜水艦に載せて米本土近くまで運び、そこから発射するか、艦載機に搭載して攻撃する方法しかありませんでした。

事実、中島飛行機(富士重工の前身)の創業者・中島知久平は大型の潜水艦から原子爆弾を積んで飛び立てる飛行機を設計していたと伝えられますが、終戦で実現しませんでした。

このようなことは、今の若い日本人は学校で教えないので全く知らないでしょうが、歴史的な事実として頭の隅に入れておいてほしいと思います。

北朝鮮の臭い風船爆弾?

戦後間もなく80年。いまや戦争のやり方も、使用される武器もすっかり様変わりしましたが、現在進行中のウクライナ戦争やガザ紛争を見るにつけ、狂気に陥った独裁者がやることは昔も今も常軌を逸しており、何をしでかすか分かりません。

そうであれば、私たちも平和を維持するためにこそ、戦争の実態をもっと具体的に知る努力をすべきであり、そして、戦争を抑止するために相応の自衛力を持つべきではないかと思います。登戸からの帰り道につくづくそう感じました。

最後に蛇足ながら、最近北朝鮮は韓国側からの、脱北者による宣伝放送に対抗して、風船による攻撃を繰り返しているようですが、爆弾の代わりに人糞などの汚物を搭載しているとか。これは殺傷力はないものの、

甚だ臭い話で、呆れるほかありません。

(2024年10月7日付東愛知新聞 令和つれづれ草より転載)