ぼくも隔月で載せていただいている『文藝春秋』の書評欄で、平山周吉さんが、その月でイチ推しの新書を紹介するコラムを持っている。
もうすぐ次の号が出ちゃうのだが、11月号では「大げさに言えば、「国民必携の新書」」として、佐藤卓己先生の『あいまいさに耐える ネガティブ・リテラシーのすすめ』を挙げていた。民主党への政権交代が起きた2009年以降、震災からコロナまで激動だった15年間の時評を集めつつ、専門のメディア史の観点から位置づけた本だ。
で、読書家の人ほど、サブタイトルを見て「ネガティブ・ケイパビリティをもじったんだな。さすが佐藤さんセンスいいな」みたく感じたと思う。なにを隠そう、ぼく自身がそうで、かつ間違っているわけでもない。
ネガティブ・ケイパビリティ(消極的な能力)とは、ものごとを安易に断定せず、不確実かつ多義的で「正解はないかもしれない」状況を、そのままに受けとめようとする姿勢を指す。もとはシェイクスピアを評価する文学上の概念として19世紀に生まれ、日本では精神科医で作家の帚木蓬生氏が書いた同題の著作(2017年)で知られる。
帚木著はもともと話題書だったが、2020年以降の新型コロナウィルス禍で、いっそう注目を集めた。ぼく自身、直接にコロナを論じた『歴史なき時代に』に収めた開沼博さんとの対談で、当時詳しく言及している。
ところが、実際に佐藤さんの『あいまいさに耐える』を開くと、そこに留まる議論ではないことがわかる。「ネガティブ(消極的)なリテラシーも要るよね」というだけではなく、ひょっとしたら識字能力自体にネガティブ(マイナス)な側面があることを、示唆しているからだ。
同書の末尾に再録されているのは、23年に文庫化されたR・ホガート『読み書き能力の効用』の解説である。タイトルだけ見ると、識字教育は大切だ的な「いかにも」なメッセージを連想するけど、ほんとうはその逆が描かれていたことに、佐藤さんは注意を喚起する。
ホガートより一世代上で同じく「奨学金少年」だったD・H・ロレンスが、哲学者フリードリヒ・ニーチェを信奉して「読み書き能力の弊害」を説いたことも想起すべきだろう。ニーチェは「読むことと書くことについて」(『ツァラトゥストラ 上』ちくま学芸文庫・1993年)でこう述べている。
”誰もが読むことを学んでよいということになれば、長いあいだには、書くことだけではなくて、考えることまでも腐敗させられる。”
ニーチェの箴言を踏まえて、ロレンスは「すべての学校をただちに閉鎖せよ」と主張した。文字を読めないほうが下劣な大衆読物や日曜新聞の悪影響から労働者階級を守ることができるというのである。
佐藤著、197頁
改行と強調、引用符は今回付与
数字も算用数字としました
……ラディカルやなぁ。「文字を教えたって、どうせロクなものを読むのに使わん階層には、教えんでいい!」なんて、いま書いたらオープンレターが出てキャンセルされるだろう。ホガートの原著は英国で1957年刊だけど、そんな立場に理解を示して大丈夫だったんすかね。
しかし佐藤さんの叙述を追うと、ホガートがまさに、コロナ禍やウクライナ戦争が2020年代に浮上させた、一億総「亜インテリ」状態の危うさを見抜いていたことに気づく。
”より詰らない大衆娯楽に私が反対する最大の理由は、それが読者を「高級」にさせないからではなく、それが知的な性向をもっていない人びとがかれらなりの道をとおって賢くなるのを邪魔するからなのだ。”
個人的に消費される画一的な大衆文化は、かつて労働者階級がもっていた「より積極的な、より充実した、もっと協同で楽しむ種類の娯楽」を干し上げていく。よく人を楽しませる者が、そのことで一番自分も楽しむことができた「おれたちの世界」は、スターの代行作用で満足する「見物人の世界」に変わった、というのである。
自らもその一人である労働者階級出身の元奨学生の視線で、ホガートは「おれたちの世界」、すなわち労働者コミュニティの崩壊を見つめている。
197-8頁
なんといっても注目は、「スターの代行作用で満足する「見物人の世界」」だろう。本来、たとえ目に一丁字のない人でも、疫病や戦争など無関係ではいられない災厄に襲われたら、互いに話しあって自ら「これは何なんだ?」「いまどうすべきか?」を考えようとしたはずだ。
ところが今日のメディア環境では、そこにセンモンカと称する「スター」が登場し、代わって考えてあげるから黙って従いなさいと唱え始める。それまでまったく無名だった人でも、TVや新聞は毎日登場させて(または公的な機関がポストを与えて)、無理やり「スター」にでっち上げる。
結果として読者は自分で考える力を失い、その問題は「この見方で捉えなさい」、批判されても「この用語で論破しなさい」と、自称センモンカに与えられたフレーズをコピペするだけのBotになってしまう。皮肉なことに、それはリベラルな民主主義よりも、かつての全体主義の社会に似ている。
後日、別に論じるかもしれないけど、当初は「勝てる」ものとして煽ってきた戦争の敗色が濃くなるや、スターなセンモンカが「負けても正しさを貫くのが美しい」なるポエムを詠んで、亜インテリな大衆が「そうだそうだあぁぁ!!」と唱和する景色も見られ始めた。今回はよその国の戦争だからいいものの(よくないよ!)、大戦末期の一億玉砕思想と同じである。
ぼくなりに佐藤著につけ加えると、そうなる元凶は、スターと見物人とに「擬似的な近接性」を演出してしまうSNSだろう。実際には友達でもなく、議論に必要な教養もないのに、つい勘違いして「この人と私は一体!」「だから私もエライ!」みたいな気持ちを起こす例は多い。
スターが、にわかに膨れたファン層と距離を置く大人ならよいのだが、フォロワーとどっぷり共依存めいた関係に陥り「みんな、私を満足させるために動いて!」とお子様のように振る舞うと、もう学者でなくなる未来が待っている。発言が研究と無縁の、ポエマーか吉本新喜劇になるからだ。
SNSの一文字めは ”Social” のSだけど、文字どおりにマイナスの意味でのネガティブ・ソーシャビリティが蔓延したことが、かえって私たちのリテラシーを貧しくしている。かといって、いまから学者のSNS利用を禁ずるとか、フォローできる専門家の数を規制するというわけにもいかない。
この煮詰まった情報環境に出口は見えず、一朝一夕には解消しない。そうした状況にしぶしぶ耐えつつも、「やっぱこれ問題でしょ?」と疑う意識を伝え続ける営みこそが、プラスの意味で今日、求められるネガティブ・リテラシーだと思う。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年10月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。