国際刑事裁判所(ICC)赤根智子所長が、国連総会で行った年次活動報告の演説が、注目を集めている。なぜなら非常に異例なことに、赤根所長が、「前例のない脅威・圧力・強制的措置」がICCを襲っていることを述べたからだ。赤根所長は、「われわれは諦めることはできない。われわれは諦めない。」とも述べた。
ICC President addresses United Nations General Assembly to present Court’s annual report|ICC HPより
脅威がどこから来ているかは、ICCの現状を考えれば、明白である。カーンICC検察官が、ガザ危機をめぐって、ハマス指導者3名とあわせて、イスラエルのネタニヤフ首相とガラント国防相に対する逮捕状の発行の許可を裁判部に要請したのは、今年5月のことであった。それから5カ月以上が経過した。ハマスの指導者層3名は全員、イスラエルによって殺害された。イスラエル側2名が残った。ところがこの2名に対する逮捕状は、まだ正式に発行されていない。これは異例なことである。
通常は逮捕状請求の発表などはしない。内部で手続きを進めて、粛々と正式逮捕状にする。逮捕状発行の決定は、手続き的事項だ。実質審査は裁判で行う。ところがその手続きに5カ月を要するというのは、全く前例がない。
そもそも早く正式な逮捕状発行にしてから発表すればいい逮捕状発行の要請という事柄を、カーン検察官が公に発表したところから、異例であった。普通に考えれば、逮捕状の正式発行を決める権限がある裁判部(予審部I)が、ある種のサボタージュをすることを恐れて、要請を公にした、と推察できる。つまり検察官は、裁判部に圧力をかけた。ところが、これが様々な動きを招いた。
イギリスは、ネタニヤフ首相らに対する逮捕状の請求に反対する立場から、意見書を提出するとした。これは7月のイギリス総選挙で労働党が政権奪取したことによって立ち消えになったが、手続きが遅れる一因にはなったとされる。
より強硬な姿勢を示したのがアメリカである。6月に下院が、ICC関係者に制裁を科すことを可能にする法案を可決した。この法案は、まだ上院と大統領署名を通過していない。だが可決の可能性はゼロではない。11月の選挙をへて、上院で共和党の勢力が広がり、大統領が交代となれば、可決の可能性はさらに高くなる。
アメリカによる金融制裁が発動された場合、オランダの銀行に預けてある職員の資産のみならず、ICCの資産も使えなくなると懸念されている。給与支払いも全てストップしてしまえば、ICCは活動停止に追い込まれる。
これはオランダを本拠地にする銀行等も、ニューヨークを本拠地にする株式市場等の金融関係の諸制度から排斥されてしまうことを恐れて、アメリカ政府の方針に従わざるを得ないために発生すると想定される事態である。以前のトランプ第一期政権の時代に、ICCがアフガニスタンにおける戦争犯罪の捜査を開始することを決定した際、当時のベンスーダ検察官らに対する制裁が導入されたことがある。それによってベンスーダ検察官がアメリカに入国できなくなっただけではない。資産凍結によって、大きな不利益と活動の制約が引き起こされた。現在、タリバン政権の復権もあり、ICCはアフガニスタンの捜査を行っていない。
当時、赤根氏はまだ任命されたばかりの判事だった。ほとんど最初の仕事が、予審部でアフガニスタン捜査開始の審理を行う作業だった。このとき、赤根氏の予審部は、ICCの資源の限界を指摘して、捜査開始を許可しなかった。この決定は、ICCを強く支持してきた世界のNGOや法律家層から、厳しい批判を浴びた。法の原則を政治的考慮で捻じ曲げている、というわけである。当時のベンスーダ検察官は、再審理を求めた。再構成された新たな予審部は、捜査を許可せざるをえなかった。
今、アフガニスタンの戦争犯罪の捜査はどうなっているか。アメリカの制裁によるダメージと、タリバン政権の復権によるアフガニスタン国内での捜査の不可能に見舞われて、捜査は打ち止めとなっている。
ICC関係者は、この騒乱をよく記憶している。そしてイスラエルに対する捜査が、さらにいっそう激しいアメリカの反発を招くだろうことを予測し、恐れている。
10月24日、衝撃のニュースがICCから発出された。締約国会議議長が、カーン検察官の女性の部下に対する取り扱いが不適切だ、という糾弾の内容の声明を出したのである。これに対して、カーン検察官は、全く根拠がない、とすぐさま反発した。実際のところ、声明文は、検察官の不適切な行動が見つかった、としか述べていないので、どういう状況なのか、全く不明である。なお締約国会議議長はフィンランドで、副議長がポーランドである。
President of the ASP statement on alleged misconduct by an ICC elected official|ICC HPより
さらに10月25日、逮捕状発行を決定する権限を持つ予審部Iのルーマニア出身の判事が、健康上の事情を理由にして、パレスチナに関する事件の担当を辞退したいと申し出てきた、するというニュースが入った。代わってスロベニアの判事が入る。
これらの不透明な動きが、全て欧州、特にイスラエル寄りの色彩が強い東欧出身の外交官や裁判官によって進められていることは、非常に怪しい雰囲気を醸し出している。
もしICCがネタニヤフ首相の逮捕状を発行しなかったら、アフリカの加盟国は反発するだろう。かつてアフリカ人の犯罪者ばかりを裁いている、という理由で、アフリカ諸国が反発して脱退の動きが広がろうとしたときがあった。このときはブルンジだけの脱退で終わったのだが、南アフリカはほとんど脱退間際だった。今回、ICJ(国際司法裁判所)にジェノサイド条約違反でイスラエルを提訴したのが、南アフリカだ。もしICCが「圧力」に負けてイスラエル政府高官の訴追を見送ったら、どのような反応をするか、わからない。とにかく大変な事態にはなるだろう。
ICCにとっては、進むも地獄、退くも地獄、という状況だ。厳しい状況だが、そうだとすれば、戦争犯罪を処罰する国際機関として存在している以上、進むしかない。だがそれによって発生する脅威によってICCが倒されてしまわないかどうかは、わからない。
非常に気になるのが、ロシアのウクライナ侵攻については「国際社会の法の支配」などの観点から、ICCを非常に重視し、頻繁にICCへの支援を口にしていた日本政府が、ガザ危機をめぐっては、沈黙を貫いているかのように見えることだ。
赤根所長は、日本の検察の出身だ。最近、何かと不祥事等で話題になることが多い、あの日本の検察である。ただし赤根所長は、検察コミュニティの中で、多数派とは言えない国際畑を歩んできたキャリアを持つ稀有な人材で、日本の検察ではトップにならないとして、国際裁判所ではトップになった、という人物である。ICCに対しては法務省と外務省の二つがかかわり、法務省関係者の中の派閥がかかわる。都合のいいときには「うちが」になるが、都合が悪くなると「うちじゃないだろう」になる。
ICCの浮沈は、日本外交にも影響する。大丈夫だろうか。心配な状況である。
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