斎藤元彦知事が改革しようとした兵庫県政の「闇歴史」

八幡 和郎

兵庫県知事選挙は劇的なドラマとなったが、その背景には、兵庫県では、1963年に金井元彦知事が当選してから、斎藤知事の出現まで4代60年にも渡って、内務官僚出身の副知事が知事に昇格するという異常な状況にあったことがある。

斎藤氏インスタグラムより

今回の選挙については、次回に論じるとして、今回は、かつて私が書いた、『歴代知事三〇〇人~日本全国「現代の殿さま」列伝~』(光文社新書・電子版で入手可能)という本の1部を編集して、公選知事の最初から斎藤知事の前任の井戸知事の出現までを紹介したい。

名知事として敬愛される阪本勝

「水が澱めばボウフラがわく。行政の良識と妙諦は常に清く、激しい流れのなかに身をおくことである」、「種子をまいて去る人もある、花の咲きにおう宴を楽しむ人もある、またその結実を祝う果報者もいる。みな、それぞれのめぐり合わせだ。自分のまいた種子を実るのを見たいのが人情だが」という名言を残して3選に出馬しない理由としたのが、兵庫県の名知事としていまだ敬愛されている阪本勝である。

阪本勝 Wikipediaより

不偏不党とヒューマニズムを掲げ、カリスマ性あふれる文人知事として絶大な人気を誇った阪本は、当時、社会党の党首だった地元の河上丈太郎の求めで東京都知事選に出馬したが、神戸の知事がどうして東京にという違和感が先行し、票を伸ばすことができなかったし、兵庫県民からも、同じ知事をするならもう少し兵庫で続ければいいのに、と受け止められた。

GHQと朝鮮学校事件

戦後の難しい時期にあって、日本最大の貿易港だった神戸をお膝元とする兵庫県の復興に当たった岸田幸雄(1947~54)は京都府生まれで、京都大学法学部卒。高等文官試験には合格していたが大阪商船に入社し、ILO使用者代表団に加わって欧州各国をまわった。戦争中は電力畑で活躍し、戦後、官選の兵庫県知事となった。知事選立候補のためにいったん辞任し、64万票を獲得して33万票の社会党の松沢兼人を破り当選した。

岸田幸雄 Wikipediaより

任期中の最大の事件は朝鮮学校事件である。

戦後、公立校の一隅を充てて朝鮮人子弟のための学校が設けられていたが、GHQは在日朝鮮人の本国帰還も一段落したとして、残留する者については原則として日本人と同じクラスで、という指令を出した。知事がそれを受けて閉鎖命令を出したのだが、これに反発した関係者が岸田知事らを監禁した。身の危険を感じた岸田は閉鎖命令を取り消したが、GHQはそれを撤回させ大規模な検挙したのである。

このときは、まだ、朝鮮戦争の前だが、その後もソウルは在日同胞の教育などに冷淡で、一方、平壌が熱心にバックアップするという構図が続いたことは、本来は慶尚南道など半島南部出身者が在日の人たちのほとんどであるのに半数近くが北の国籍を持つというねじれた状況をもたらした根本原因である。

県政腐敗を糾弾され辞職勧告

再選時には県経済部長だった徳崎香を35万票という大差で下した岸田だが、2期目の終わりに最初の当選以来、県庁内で副知事と出納長の派閥争いがあり、知事が吉川覚副知事に辞職を迫ったところ、反対に県政腐敗を糾弾され辞職勧告書を突きつけられる騒ぎになった。

岸田はいったん辞職して禊ぎを受けようと画策したが、批判は強かった。元内務大臣の湯沢三千男をかつぐことで岸田を降ろそうとしたが岸田は受けず、岸田と吉川の両方が立候補する泥仕合になった。

そのなかで漁夫の利を占めたのが革新陣営の阪本勝(1954~62)で、42万票という大差で当選し財政課長だった一谷定之丞は、政府の介入を渋り金融機関からの借り入れを主張する阪本に、「財閥、資本家から借りるより国民、県民から借りた方がいでしょう」と説得したという。

阪本は東京大学経済学部卒。教師、記者、文筆業の傍ら労農党の県議をつとめ、1942年には代議士、戦後は尼崎市長となった。「県民と燕は自由に来たれ」と登庁第一声を発し、知事室に市民が訪れるように求めた。

財政は窮乏を極め、財政再建団体になった。このとき、県立の医科大学、農大を国立に移管したり、知事公舎の売却、社会福祉の充実などにつとめた。だが、国体は徹底した節減をした上で開催され、復興のシンボル的行事として県民の意識を高揚するのに絶大な効果があった。

『華麗なる一族』の時代

後任となった金井元彦(1947~54)は姫路生まれ。東京大学法学部から内務省入りし、青森県知事などをつとめる。そののち一時、民間企業にあったが、阪本の就任の翌年に副知事に就任して、文人肌の阪本を実務面からよく支えた。阪神間の臨海部での工業立地を抑制し、内陸や播磨地域での工業開発を促進した。

金井は自民党の推薦で出馬し、革新系からは広報室長の今井正剛が出馬した。阪本は部下同士の戦いで一方に与するわけにはいかないと介入しなかったのが幸いして、金井が62万票を獲得して35万票の今井を下した。

金井元彦 Wikipediaより

阪神間の臨海部での工業立地を抑制し、内陸や播磨での工業開発を促進した。なお、『華麗なる一族』はこの金井知事時代の神戸を舞台にしている。


華麗なる一族(上)

関西に置ける空港問題が混迷する原因

金井は再選直後に副知事の坂井時忠(1970~86)と教育長の一谷を呼び、まず、一谷に後継としての出馬を要請したが、一谷は「坂井さんに」と儀礼的に遠慮したところ、その場で、坂井が受諾したので路線が敷かれたという。

坂井は佐賀県の生まれで東京大学法学部から内務省入り。若い頃に兵庫県で農政課長、地方課長をつとめたこともあるが、さらに、兵庫県警察本部長、警察庁官房長、近畿管区警察局長、阪神高速道路公団理事を経て副知事となる。

坂井時忠 自由民主党兵庫県支部連合会HPより

最初の選挙戦では86万票で、社会党元代議士の伊賀定盛が60万票と善戦したが、そののちは、ダブルスコア以上の差を続けた。そんななかで、2期目には革新系と距離を取り始めていた公明党が独自候補を立て、3期目には坂井支持に回ったのが象徴的だった。ただし、この時には事務所内に神棚を置くことに反対して一波乱があった。3選はせずという不文律を破って坂井が多選された背景には、警察庁出身の山口廣司副知事が急死したということもあった。

坂井は県内を6ブロックに分けて県民局を置き、地域対策を強化した。また、同和行政を部落解放同盟に一本化するかどうかで同盟と対立し、県庁で座り込みが続く事件があったが、断固、拒否を貫いた。剛直にして繊細な人物であった。

また、坂井の在任中の1973年、神戸沖への空港建設に神戸市の宮崎辰雄市長が反対の立場を取って選出され、このことが、その後の関西に置ける空港問題が混迷する原因となった。坂井はこの宮崎の意向に同意しなかったのだが、国際空港は大阪府南部に建設されることとなった。国際都市としての位置づけこそが都市の生命である神戸にとって、返す返すも残念な自己保身を優先させた市長候補の決定だった。

西播磨テクノポリス開発構想の推進

後継知事をめぐっては、鷲尾弘志県議も意欲を示したが、副知事の貝原俊民(1986~2001)に落ち着いた。佐賀県武雄市の生まれ。東京大学法学部卒業後に自治省へ入り、兵庫県地方課長として出向してそのまま残り、農林部長、総務部長などを経て副知事となる。1997年には阪神淡路大震災に遭う。震災からの復興が一段落付いたとして、4期目の任期を1年残して辞任した。

在任中、「中央集権制限法」を提案するなど、貝原氏は地方分権推進の論客として知られた。また、西播磨テクノポリス開発構想なども推進した。

だが、大震災にあたっては、知事公舎にあって事態の深刻さの認識が遅れ、自衛隊への災害派遣要請など初動がひどく遅れて非難を浴びた。その後も、誠心誠意の仕事ぶりではあったが、地方自治の原則論などにこだわり、国家的な取り組みの引き出しに十分な成果を上げることができなかった。

「県土の一木一草まで責任を持つ」という金井知事の言葉を引き合いに出し、人間的にも、政策面でも、好ましく評価されていたのだが、後藤新平らによる関東京大学震災からの復興の成功が帝都東京としての発展に大きく寄与したのに比べたりするとき、物足りなさを感じるというのも確かだろう。

井戸敏三(2001~2021)は、兵庫県新宮町出身だが、日比谷高校から東京大学法学部を経て自治省入り。大臣官房審議官を経て副知事に就任。自民、公明、民主、社民推薦で知事となる。貝原のブレーンとして知られた、姫路独協大学長の小室豊允も反官僚をとなえて立候補したが、井戸の140万票に対して47万票に留まった。

井戸敏三 Wikipediaより