私は嘗て明治・大正・昭和と生き抜いた知の巨人・森信三(1896年-1992年)先生の以下の言葉、「われわれ人間は、もし自分の現在の状態が、有難いか忝(かたじけ)ないという念(おも)いが、しだいにわが身に浸(し)みわたって来ますと、日々の生活そのものが、そのまま幸福な生活ということになるのであります」をツイートをしたことがあります。先生は「幸福の考え方」に関し様々述べておられ、それは拙著『森信三に学ぶ人間力』(致知出版社)の第二部・第一章「人生は深く生きるところに意義がある」でも次のように御紹介しました。
――「現在自分は不幸だと思わない状態こそ、実は幸福なしょうこ」(全集続篇第一巻451頁)と述べておられます。(中略)足るを知ることが人生を幸福に生きる一つの大切な心がけである、というのです。また、これに加えて幸福になる重要な条件が二つあるといわれています。一つは、自分を他と比べないということ。(中略)もう一つの幸福の条件は、現状に対して感謝をする気持ちをもつということ。(中略)幸福というのは自分が一所懸命やった結果、報償として与えられるものであって自分から求めるものではない、というのも重要な指摘です。
幸福ということでは、西洋でも偉人と称される様々な人が色々な言い方をしています。例えば、アリストテレス(前384年-前322年)は「幸せかどうかは、自分次第である」と言っています。また『ピーター・パン』の作者として知られるジェームス・マシュー・バリー(1860年-1937年)の言に、「幸せの秘訣はやりたいことをするのではなく、やらなければならないことを好きになることである」とあります。上記に関し私見を申し上げるとすれば、やはり究極的には社会に対し、何らかの貢献が出来たということが一番幸せを感じることではないかと思います。
「幸せの秘訣はやりたいことをするのではなく」、自分に与えられた天命の成就に一歩でも二歩でも近付くべく、生ある限り全力投球をして行き、常日頃から努力を怠らないことです。それは一面、「やらなければならないことを好きになることである」とも言えるのかもしれません。孔子(前552年-前479年)の言に、「憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将(まさ)に至らんとするを知らざるのみ…物に感激しては食することも忘れ、努力の中に楽しんで憂いを忘れ、年を取ることを知らない」(『論語』述而第七の一八)とあります。私は幸福を得るに、何時も精神が潑剌(はつらつ)と躍動している中で、天と対峙するということに尽きると思っています。
人間は社会的な動物であり、自分一人では生きられず、周りによって生かされています。人間として生まれてきた以上、何か社会で果たすべき役割があるはずです。その役割が天命というものです。我々にとって天命を知ることは、生きる目的を知ることだと言っても過言ではないでしょう。江戸時代の名高い儒学者である佐藤一斎(1772年-1859年)が言うように、「人は須(すべか)らく、自ら省察すべし。天、何の故に我が身を生み出し、我をして果たして何の用に供せしむる。我れ既に天物なれば、必ず天役あり。天役供せずんば、天の咎(とがめ)必ず至らん。省察して此に到れば則ち我が身の苟生すべからざるを知る」(『言志録』第10条)ものです。
「天役」とは、自分の天職と思える仕事を通じて天に仕えること、社会に貢献すること、即ち世の為人の為に仕事をすることです。仕事を自分自身の金儲けの為や自分の生活の糧を得る為のものだと考えると、人生は詰まらないものになります。世の為人の為になることをするからこそ、そこに生き甲斐が生まれ幸福になれるのです。私は、自分の天分を全うする中でしか此の生き甲斐は得られない、と思っています。そして人格の陶冶に努めた結果として最終、「楽天知命:天を楽しみ命を知る、故に憂えず」という境地に到るのです。天命を悟り、それを楽しむ心構えが出来れば、人の心は楽になるのです。そうやって天に仕える身として常に自らの良心に背くことなく、社会の発展に尽くすべく仕事の中で世の為人の為を貫き通したらば、人は幸せになれるのだと思います。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年11月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。