自民党だけがなぜ選択的夫婦別姓に反対するのか

池田 信夫

立民党が法務委員長を取ったことで、国会に夫婦別姓の選択を認める民法改正案が提出されることが確実になった。自民党以外は(公明党も含めて)全党派が賛成しており、自民党も党議拘束はかけないと思われるので成立は確実だ。

野党に転落して「右旋回」した自民党

これは法的には些末な問題である。民法750条は「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と定めているが、これは働く女性には不便なので、別姓も認めるように民法を改正することで1996年に法制審は一致し、改正案が答申された。

ところがこれに神社本庁や日本会議などの右派が反発し、答申が閣議決定に至らない異例の結果になった。その後、自民党は2010年の参院選の公約で「夫婦別姓反対」を打ち出し、2012年に憲法改正案で「家族は社会の自然かつ基礎的な単位として尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」と定めた。

世論調査では民法改正に賛成が一貫して多数派である。内閣府はわざわざ「旧姓の通称使用の法制化」という第3の選択肢をつくったが、これは自民党の圧力だった。本来は「改正に賛成か反対か」ときいた上で反対派に「旧姓の通称使用を法制化するか」ときくべきだ。

自民党のコア支持層には、個人主義の憲法や民法をきらい、明治時代の家父長制に戻したいと思っている人がいる。それは高齢者に片寄り、今では数も多くないが、自民党の固い集票基盤である。自民党が野党に転落したとき、こうした古い支持層に迎合するために極右化したのだ。

夫婦同姓はドイツの「ファミリーネーム」

問題は、こんな当たり前の話に自民党だけが根強く反対するのはなぜかということだ。日本会議が2010年に出した「守ろう!家族の絆」というパンフレットには、次のように書かれている。

近代以降、日本の家族制度は、明治の家制度、そして敗戦後に定められた現行民法へと変遷をたどってきた。しかし日本の家庭・家族は、法律上の家族規定の変化にもかかわらず、家族の伝統的あり方を守り続けることによって、社会秩序の基礎を形成してきた。このことを象徴するのが、家族がその共同体の名称として共通のファミリーネームを称する同姓制度である。

ここでは現行民法とは異なる「家族の伝統的あり方」を守ると書かれている。慎重に言葉を選んでいるが、民法の個人主義を否定して明治の家父長制に戻したいという意図がうかがえる。

しかしこれは錯覚である。北条政子や日野富子の例でもわかるように、日本の伝統は夫婦別姓なのだ。これは中国や韓国と同じ、東アジアに共通の原則である。日本では「家」は江戸時代に農民を土地に縛りつける制度になったが、苗字は武士の特権だったので、百姓には苗字がなかった(非公式の屋号はあった)。

1870年の太政官布告で夫婦別姓が定められたが、ほとんどの人には苗字がなかったので、地主などにつけてもらう人が多かった。1898年に民法を制定したとき夫婦同氏になり、古代からの伝統だった夫婦別姓は廃止された。「家」が制度として制度化され、長男が「戸主」として土地をすべて相続する家父長制ができた。これは戦後の民法改正で廃止されたが、夫婦同氏の規定だけが残った。

旧民法の氏は、東アジアの伝統である姓とも、日本の伝統である苗字とも違う。日本会議も認めるように、それは日本の伝統ではなく、明治時代に民法を制定するときドイツから輸入したファミリーネームなのだ。日本会議も最近はその矛盾に気づいて、このパンフレットをウェブから削除した。

夫婦に同じファミリーネームを法的に義務づけている国はない。近代国家では個人は固有名詞で同定されるので、家族による分類は必要ないのだ。東アジアで生まれた戸籍という制度も、中国や韓国が廃止し、残っているのは日本と台湾だけだが、本人確認の手段としては時代遅れである。

戸籍は明治の家父長制の遺物

今でも不動産登記や相続などは戸籍謄本がないとできないが、全部マイナンバーカードで代替できる。個人を日本独特の続柄で同定する戸籍は家族の出自がたどれるので、部落差別などの原因になる弊害が大きい。

戦後は日本も核家族になったので、直系家族で個人を同定する戸籍制度は形骸化したが、企業にも「一家」で働く意識が強く、親会社と子会社の多重下請け構造で、市場を介さないで緻密なすり合わせを行う。

それが日本の製造業の競争力の源泉だが、1990年代以降のグローバル化には、ローカルな「家」の中で調整するシステムは適応できない。この点では多くの家族が地域を超えて大きな宗族でまとまる中国のほうが、グローバル化に対応しやすい。

「家」の意思決定は中間集団の中で行われ、それを超える権力が弱いので、細かいことも全員一致しないと決まらない。夫婦別姓のような当たり前の法改正に30年近くかかる自民党は、「家」社会の欠陥をよく示している。

このような家父長制を卒業し、個人が中間集団から自立することが日本の課題だが、それは容易ではない。選択的夫婦別姓が戸籍を見直すきっかけになり、明治以来の家父長制を脱却できるなら、夫婦別姓をめぐる議論も無駄ではない。