【書評】太田康夫『漂流する資本主義 新たなパラダイムを求めて』

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カバー

歴史上にこれまで出現した様々なタイプの資本主義の名称が、本のカバーに書かれている。それが14もあるので小さな活字だが、それらに取り囲まれて中央に『漂流する資本主義』の太字が浮き上がる。シンプルだが本書を象徴するデザインだ。

資本主義という船

この船は、およそ200年間航行を続けてきた。途中、沈没の危機もあったが、なんとか役目を果たしてきた。つまり人類に多大の富をもたらした。その大事な船がその時々の特徴を示しながら漂流しているというのだ。

国によって船の仕様が異なるだけでなく時代によっても様々だが、その違いがわかるように、著者がメインマストに14の識別の旗をつけてくれたわけだ。

では、著者とともに漂流の旅に出よう。といってもショートカットだが。

概観

漂流はソビエト社会主義という大岩のような邪魔ものがあった時代とその後に二分される。漂流が急激かつ激しくなったのは後の方の時代のようだ。

全章を通じて著者の多読ぶりに驚かされる。学者の読むような著作、論文類に加えて、各時代に政府機関・研究所から出されたレポートが材料になっている。

第1章では日本ではめったに読まれないW.ゾンバルトにも言及している。第1章で資本主義の成立から現代までを概観し、以下の各論に入る。

日本丸

第2章では、日本丸の戦後史が簡潔にまとめられている。焼け跡から立ち上がった日本資本主義は官僚主導、かつメインバンク制を採用し、アメリカをモデルにスタートした。戦後、高揚した労働運動を抑制する意味もあって、終身雇用という非アメリカモデルも併用していた。

途中は飛ばそう。新しい世紀に入って“三本の矢”で人々の認識を高め、ついにアベノミクスという愛称まで獲得。日本丸は不況を打ち破る推進力を示した。政治的にも強力だった。日本銀行を自らの僕(しもべ)にし、異例の金融政策を展開する。財政規律を口にしつつも、実際には、随所でバラ撒き政策を強行した。

三本目の矢は構造改革ということだったが正体がはっきりせず、一本目(金融)、二本目(財政)に比べると特筆すべきものもなかった。唯一、目立ったのはアメリカを見習って民の力を引き出す方向で、そのための道具が規制緩和というメスだったが、大手術は成功したとはいえず、残った結果は「企業にやさしく、家計に厳しく」(同書、P.84)だった。

ついでに言えば、働く者にはさらに厳しかった。著者が主張するようにパイオニア・ショックを契機に日本の終身雇用は崩れていった。労働組合は抵抗力を失い、組織率は低下の一途となる。

久しぶりに野党が目立った“仕分け”はテレビのショーとしては面白かったが、行き当たりバッタリの闇雲で、資本主義の新しい像には辿り着かなかった。

アメリカ

第3章はお手本のアメリカを扱っている。アングロサクソン型(実はアメリカ型)は株主資本主義に変身していた。それに合わせて、主要な資本主義国では民営化が進行していた。つまり、政府の主要な機関・事業が株式会社に転換した。

株主こそが所有者。働く人々は、その持ち物、一種の道具と見なされ、“人材”という一見もっともらしい呼称が当然視された。

株主資本主義は株式市場からの距離に応じて富を分配したから、所有と非所有の間に大きな所得差を生み、アメリカの貧富の格差は拡大した。格差は先進国と途上国の間でも開いたから、途上国の働く人々は世界の最底辺に置かれた。先進国の大都会で売られる一杯のコーヒー代金のたった1%しか農園労働者の賃金にならなかった。

新しいタイプ

これでは長くはもたない、ということで新しい船が模索される(第4章)。

最初に登場したのがステークホルダー資本主義。“株主だけじゃーない”というのだが、これには反発も多かった。というのは、株主制度が法制化を伴って主要各国に定着したとき、株式は所有権、すなわち株主は所有者ということが、それぞれの社会で原則として合意されていたからだ。ドイツのような国では労働者に一定の経営ポジションを与えたが、本家のアメリカではそうはいかなかった。

企業の立地場所である地域の地公体もステークホルダーだといってもなかなか浸透しない。ダボス会議などの見解が労働者寄りになったのがせいぜいの成果だった。

インクルーシブ

ステークホルダー論が原理的根拠の欠如のため浸透力を欠いたように、次に出てきたインクルーシブ資本主義もさほどの説得力を示していない(これは評者の見解)。

著者は、これに、北欧の資本主義とともにシンパシーを感じ期待を寄せているようだ。“株主のために”を弱めて貧しい人を意識して経営する。そういう配慮ができるような組織をつくる。あのグラミン銀行のように。

しかし、資本主義にそういうことが普遍的に可能なのだろうか。それなら“社会主義”では、という批判がなされるのは当然だろう。

ブータンは幸せな国だという。しかし資本主義国は決してブータンを目標とはしない。

幸福を語る王様の言説は拝聴しておこう。しかし、幸福もウェルビーイングも“客観”ではないから科学の対象にならない。

不都合な真実

これは環境問題を扱って自ら主演したアル・ゴアの映画のタイトルだ。漂流しつつも、よりよい方向に人類の船を導きたいのだが、行く先々に容易には克服できない現実がある。

ひとつには低成長。この典型は日本だ。セルジュ・ラトゥーシュをはじめとして脱成長論者は多いが(私の著書『The NEXT』の14章参照)、それは先進国の勝手な言い分けだと途上国の人々は考えている。今回のCOPでも途上国が先進国に露骨に資金を要求する背後には、それがある。

低成長からの脱出が問題なのだ。その手っ取り早い方法は国家に頼ることだ。中国のこれまでのやり方、ここまでの成功を見て途上国の多くは“国家資本主義”に賛同している。

ゴアが注目した不都合の筆頭は環境問題だが、他にもあった。短期的な発想はダメといいながら長期的な経営姿勢は一般的にならない。取締役になったら、だれしも1期目でクビになりたくない、と思うからだ。ローマ教皇が倫理を説いてくれるのは有難いことだが、企業の悪行は少しも減らない。日本だけみても、ビッグモーター(薬剤で店の前の並木を枯らした)、小林製薬など例をあげればきりがない。

グリーン資本主義

『沈黙の春』、そしてローマクラブの『成長の限界』から始まるグリーン資本主義の主張にも著者は注目している。

成長か環境かの選択でなく両立をめざす企業が理想だが、他社との競争関係のなかで、当面の利益にならない“グリーン”に傾斜できるかどうか。

自社だけそれをやることを株主が容認すると考えるのは甘いだろう。

AI

この分野はアメリカの一人勝ちだ。しかし、この産業の引き起こす問題は多方面で生じている。AIが人間精神に及ぼす部分はここでは置いておこう。AI産業が使う、膨大な電力、熱を冷却する水、そんな問題が評者の地元、北海道でも現実になっている。

「新しい資本主義」は前首相の看板だったが、まさしく看板倒れであった。主張された貯蓄から投資は「骨太方針」でも目玉政策だったが、実施されたNISAで集められた資金の多くはアメリカに向かった(これは、いまのところ投資としては大成功。日本に投資して8月5日の暴落と巡り合うよりずっとよい!)。

小さな国へ

著者は不都合な真実を・5章、紹介しすぎたためか“衰退を認め、小国の道へ”と弱気を見せつつも、最後は力強く次の言葉で本書を締めくくっている。

資本主義は株主や経営者のほうだけを向くのでなく、もっと労働者のほうを向いた民主的な姿が望ましい。その実現のためには、私たちの意識が資本主義の発展を支えるカギを握っていることを自覚する必要がある。

(同書、P.267)

質問

著者にひとつ質問がある。

漂流は進化を伴っているのか? つまりAタイプからBタイプに移行するときなんらかの進化があるのか。それともただ漂流するだけなのか。それなら体力を消耗するだけだが、前者なら人為選択を重ねて理想型に近づけるかもしれないという希望がある。これは大きな論点だと思う

経済学者、特に私が関心を持つ人々は後者が多い。ドイツの社会経済学者W.シュトレークは、この漂流を“時間稼ぎ”(Gekauft Zeit)と呼んでいるし、アメリカの経済学者D.ハーヴェイは“終焉”に向かう漂流だとしている。

感想

漂流するのは、その船のエンジンが故障したか、操舵が不能になったかである。前者ならエンジンを修理するのだが、問題は後者の場合だ。

資本主義の船に乗っているのは私達に違いないが、私達はこの船の操舵カンを握っていないかもしれないのである。資本主義の船は私達の意図するところとは別に動く。妙なことを言うようだが、経済学はそれだからこそ成立する学問である。もちろん、かのケインズがやってみせたように人為的操作の可能性はあるが、その及ぶ範囲は広くない。金融や財政はその狭い範囲にある。

著者は長年、新聞記者として金融界を対象にして活躍してきた。スイスに駐在しダボス会議も取材したエリートだ。だから、人為的操作性の力を信じているのだろう。人間の意志を強く信じているのである。資本主義は漂流しても、やがて希望の地に到着するという本書のメッセージはそこから語られているのだと思う。このストレートな心情は本書にさわやかな印象を与えている。気持ちが伝わるから読みやすいのだろう。

資本主義は、私的所有という所有形態を基礎に成立している。そして、この基礎上に発展した装置が株式会社である。資本主義はその発展のため大規模な投資を必要とするが、私的所有を前提にしたままそれを実現するのが株式会社・制度である。

漂流した船の多くは株式会社をそのままにしている。インクルーシブとか脱成長論の一部はそれを否定しているが主流ではない。株式会社は、いわば船のエンジンだ。それを停止すれば脱成長は実現されるが、地球上の多くの人が飢える可能性もある。

日本についていえば、エンジンはかなり弱っている。著者は失われた30年が80年に延びるという説を紹介している。日本では脱成長はもはやスローガンではない。それはとっくに実現されてしまっている。しかし、環境問題も、人々の心の問題も、財政危機も解決に向かって進んでいない。株価の上昇は、こういう負の面の裏返しではなかろうか。

過剰流動性に起因するインフレ爆弾は炸裂寸前だ。そして、資本主義を操縦していると自負している人々の自信も揺れている。日本銀行の幹部達の利上げに関するチグハグな発言がそれを象徴している。(私の論稿「名もなき暴落①~⑥」に掲載)

エリートだけではない。働く人々の希望も明らかに減退した。働き甲斐を感じている人は少数だ。日本中から活力ある職場が失われている。労働組合は弱体化し、たとえあっても役に立たない。日本中で、「今だけ、金だけ、自分だけ」が蔓延している。

青春時代、私が受験生だった頃、長野県の木崎湖畔に一ヶ月滞在したことがある。勉強スケジュールのなか、楽しみは夕食前にNHKのテレビを見ることだった。人気のあった人形劇のテーマソングを今でも覚えている。

♪ ひょうたん島はど~こ~へいく。僕らを乗せてど~こ~へいく~。♪

今になって考えた。ここで言う僕らは乗客なのか、それとも乗員なのか。

著者は「資本主義の変革はそこに生きる意識の転換にかかっている」と主張する。

私はこれに、単純な観念主義には同意しないという前提をおいて、賛成し、著者の研究の進展を期待する。

進め!ひょっこりひょうたん島 、水平線の向こうには何かが待っているのだから。

漂流する資本主義 新たなパラダイムを求めて 現代資本主義全史

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