祖父の子を実子にさせられた鳥羽上皇が愛した鳥羽(グルメ案内付き)

ダイヤモンド・オンラインの「【光る君へ】最終回のその後……道長の子孫・白河上皇の『院政』を彩った驚きの男女関係」がYahoo!ニュースにも転載された。

上皇たちによる院政が行われた場所として、前回は白河上皇が愛した左京区岡崎を『紫式部と武将たちの京都』(知恵の森文庫)から紹介したが、今回は鳥羽上皇が愛した鳥羽を案内する。

鳥羽法皇画像 安楽寿院所蔵
Wikipediaより

鳥羽上皇の母は藤原道長の叔父にあたり、存在感は薄かったが、道長の時代に長老として大臣を歴任し、太政大臣にまでなった公季の玄孫である。公季の曾孫である茂子が白河天皇の母であり、その兄の娘で堀河天皇の女御であった苡子が鳥羽天皇を生んだ。

さらに、苡子の兄の娘である璋子(待賢門院)が鳥羽天皇の皇后となり、崇徳天皇や後白河天皇を生んだが、崇徳天皇については鳥羽天皇の祖父である白河上皇が実父であるという噂がある。

角田文衛は『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄』において、待賢門院璋子の生理周期と行動や滞在場所から、崇徳天皇は白河上皇の子であることを証明したと主張しているが、前提が割り切りすぎているため反対論も存在する。

鳥羽離宮跡の秋ノ山
Wikipediaより

白河上皇や鳥羽上皇が愛したのが鳥羽の離宮である。鳥羽は名神高速道路京都南インターチェンジの周辺に位置し、北側は南区上鳥羽、南側は伏見区下鳥羽である。院政期に栄えたのは南鳥羽である。

平安時代、この地域には巨椋池が広がり、鴨川や桂川が流れ込んでいた。大きな船は山崎あたりで止まるが、小さい船ならここまで遡れる。また、朱雀大路の延長である鳥羽作道の終点であり、港湾都市としても適していた。さらに、狩猟や月見にも好条件であった。

「鳥羽」という地名は全国各地に見られるが、谷の入り口や港、渡し場を意味するなど諸説がある。漢字は当て字であり、特に意味はない。

また、平安京より温暖であった。京都では北と南で寒暖の差が顕著であり、鳥羽は熊野詣での出発地としても便利で、ここで一週間ほど潔斎してから出発していた。

11世紀に院の近臣であった藤原季綱(平治の乱で殺された信西の祖父)が別邸を白河上皇に献上したことが鳥羽離宮の始まりである。これが南殿であり、後に東殿が建設された。白河上皇は自身の墓所として安楽寿院を造営した。

安楽寿院陵
Wikipediaより

鳥羽上皇も泉殿などを増築した。現在ではほとんど遺跡は残っていないが、南殿の跡地は鳥羽離宮公園となっており、「秋の山」といわれた築山の痕跡がある。また、安楽寿院とその周辺には白河・鳥羽・近衛三帝の御陵があり、特に近衛天皇陵は多宝塔という珍しい形で、豊臣秀頼が再建した。

離宮の鎮守であった城南宮は方除けの神として信仰を集めている。4月29日と11月3日には王朝の雅を伝える「曲水の宴」が行われ、源氏物語に登場する花の保存にも尽力しており、藤の花の名所としても知られる。

1868年の正月には鳥羽伏見の戦いがこの付近で起きた。幕府軍は細長い行列のまま関門の開門を要求したが、官軍は拒否し、横から射撃を行ったため、幕府軍は敗退する結果となった。

おせき餅
Wikipediaより

城南宮の名物は「おせき餅」である。餡子を載せた餅であり、約450年前の茶屋の看板娘の名前に由来するとされる。

レストランは街道沿いにファミリーレストランが多いが、「京都離宮」は「おだし」のテーマパークとして人気を集めている。

だしまき御膳と釜たきごはん
京都離宮HPより

サバやウルメ、イワシなどで作られた「離宮のおだし」、最高級とされる枯本節を使用した「かつお」、贅沢にトビウオを使った「あご」、京都のサワラを用いた「京さわら」の4種類のおだしをテイスティングし、好みのおだしでだし巻き卵を焼いて提供するサービスが好評である。

さらに、ODASHI×SODA おだしドリンクなどのユニークな商品も展開している。