前回の記事と同じく『文藝春秋』2月号の、第二特集は豪華な識者が世界各国の危機を論じる「崩れゆく国のかたち」。私と浜崎洋介さんの対談「SNS選挙は民主主義なのか」も載っています!
昨年12月12日に配信された文春ウェビナーで、世界中が選挙に揺れた2024年を振り返った内容を、ぎゅっと圧縮しての活字化。歳末の突貫工事を厭わずお骨折りくださった編集部のみなさまに、改めて御礼申し上げます。
それで、以下の冒頭無料動画でも話していますが、自分がいちばん大事と思うのがこちらで――
與那覇 ……驚くのはその後、ダメだとわかっているはずのハリスをリベラル派が持ち上げたことですよ。しかも、勝負の懸かった米国の民主党員ならともかく、日本の識者がそれをやる。
他にいないので「嘘でもいいからハリスに期待しよう」といった〝希望の切り下げ〟を続ければ、最後は「トランプでなければ誰でもいい」となってしまう。これでは民主主義が質を問わないものになり、〝社会の底〟が抜けてしまいます。
194頁(強調は引用者)
昨秋の米大統領選では Anyone but Trump(トランプ以外なら誰でも)ですが、「アレはマイナス100だろ? じゃあマイナス95でも、まだマシなんだから受け入れろよ」みたいな売り込み方が、増えすぎたと思ってるんですよね。ポピュリズムというと、人気者に有権者が「熱狂する」イメージで語られがちですが、それは違うんじゃないか。
平成の日本を見ても、小泉純一郎内閣は「古い自民党」、第2次以降の安倍晋三内閣は「悪夢のような民主党政権」を仮想敵に、どんだけ問題あろうがあれよりはマシでしょ? なノリで例外的な長期政権を築いたわけで。ポピュリズムの裏側にはむしろ、ニヒリズムが貼りついていると捉えるべきだと、長らく思ってきました。
実はこの問題、『知性は死なない』で病気から復帰した2018年に、「尊厳のデフレ」という言い方で述べたことがあります。いまは、同書の文庫版に増補として再録していますので、引きますと――
尊厳のデフレによって、自分には存在意義があるという感覚を失う、すなわち自己肯定感を奪われてしまう。そうすると、「私自身は無能(無価値)かもしれないが、この人(理事長でも大統領でも)が『有能な人物』であることを知っており、彼に倣って行動している点では私もまた有能である」といった思惟様式で、力ある他者の能力を忖度することに自らの存在意義を見出そうとする。
書店のベストセラーの棚にいけば、著者の能力を「忖度させる」書物が山をなしています。キメ顔の著者の写真に、一流大卒、何歳で起業して成功、いま何億稼いでる、親交ある著名人が絶賛……といった「能力」を誇示する帯。読者はそれを手にとることで、「自分は少なくとも、こうした『有能』な人の存在を知っている」と安心するのでしょう。
――その安心を守るために、はたして帯の文句や著作の内容にどこまで内実があるのかは、あえて調べずに。
332-3頁
初出は『現代思想』の大学特集
ニヒリズムのベースにあるのは、無力感なんですよね。自分には力がない、ゼロだ、と打ちひしがれていると、これに賭ければ「ゼロから抜けられるぜ」と言われただけで、どんなに矮小なニセモノでも掴んでしまう。
しかし、そうしたニセモノ自身が往々にして空っぽな存在で、当人も自分に中身がないと知っているので、せっかく見つけた「信者」を手放さないよう、他の権威に頼ったキラキラ演出に依存していく。落選後はすっかり「敗因」扱いされている、カマラ・ハリスのセレブゲスト呼びまくり戦術みたいなやつですね(苦笑)。
これはちょうど、「推し活」を選挙に導入すれば、前よりポジティブな結果が出るに決まってるじゃん? 「推し」が政治家になるんだし! みたいな議論が、昨年の日本で破綻したのと同じ構図です。
自分じゃなく他人(推し)にアイデンティティを預けちゃう時点で、深い無力感が忍び寄っている。そんな状態だと、推しがダメなやつだとわかったところで、どこまでも離れられない。DVされても「私の ”推し方” が足りなかった」と、自分を責めちゃう被害者のようなものですね。
そうした現状からの出口は、どこにあるのか?
記憶に新しいニュースの数々と、思想的な掘り下げ(後半はアーレントで議論しています)を通じて、探る対談になっています。多くの方にお目通しいただければ幸いです!
(ヘッダーは毎日新聞より、テキサスの集会でハリスを応援するビヨンセとケリー・ローランド。Destiny’s Child世代としては感慨深いのですが…)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年1月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。