ガザ紛争、ウクライナ戦争など、世界各地で紛争が続いている。
日本で「戦争」というと、第2次世界大戦(1939-1945年)が思い浮かぶが、筆者が住む英国ではその前に総力戦となった第1次世界大戦(1914-18年)も含めての犠牲者を忘れないための試みが続いている。
毎年11月、「リメンバランス・サンデー(追悼の日曜日)」と呼ばれる戦死者追悼式典が開催され、秋になると、人々は洋服の襟に赤いひなげし(ポピー)の飾りを付けて追悼の意を表明する。
リメンバランス・サンデーの日にちは毎年異なり、1918年の第1次大戦の休戦記念日である11月11日に最も近い日曜日が選ばれる。今年は11月9日である。
この日、ロンドンのウェストミンスター宮殿の近くにある戦没者記念碑前に王族、政治家、退役軍人らが集まり、午前11時から2分間黙とうする。英国各地で同様の集まりがあり、大勢の人が黙とうに参加する。
第1次大戦は100年以上前、第2次大戦は80年以上前に起きた戦争だが、この時に英国民全員で亡くなった人を「忘れない」誓いを立てる。
2017年、共同通信のロンドン支局長として赴任していた島崎淳氏はテレビ中継でこの式典の様子を見ていたときに、出席していたエリザベス女王(当時)が涙を見せたことに気づく。この時、島崎氏は英国にとって、第1次大戦やリメンバランス・サンデーがいかに大きな意味があるのかを痛感したという(「平野丸、Uボートに沈没さる第一次大戦・日英秘話」から、五月書房新社、2024年4月発行)。
Uボートに撃沈された平野丸
著書の題名にある「平野丸」とは、20世紀初め、日本郵船が運航していた貨客船(旅客と貨物を同時に運ぶ船)の1つだ。
第1次大戦が終了する直前の1918年10月、ナチスドイツの潜水艦(通称「Uボート」)に撃沈された船である。
平野丸は英リバプール港から日本に向けて戻る途中、アイルランド南方沖で攻撃に遭い、乗客と乗組員合計240人のうち、船長を含む210人が死亡。第1次大戦中に戦没した日本商船の中で最大の死者数である。
乗船者たちの遺体は近くの英ウェールズ南部の海岸に流れ着いた。住民たちは遺体を引き上げ、近くの教会に墓標が立てられた。
新たな慰霊碑の建立へ
年月が経つうちに墓標は朽ち果ててしまう。
そこで地元の郷土史家が新たな墓標建立のために募金活動を始め、沈没から100年となる2018年10月、新たな慰霊碑の除幕式が行われた。
新慰霊碑建立から除幕式、その後の話を取材し、島崎氏が1冊の本にまとめたのが「平野丸、Uボートに沈没さる第一次大戦・日英秘話」である。
島崎氏は除幕式の半年前に現地を訪れ、ウェールズ南部アングルで建立計画の中心となった郷土歴史家デービッド・ジェームズさんに会い、もともとの墓標があった教会を訪れる。
なぜウェールズの人は墓標を立てたのか?
日英は第1次大戦では同じ側にいたが、第2次大戦では敵国同士となった。そうした歴史を経て、なぜジェームズさんや彼の支援者は新たな墓標建立に動いたのだろうか?
こうした問いを抱きながら、島崎氏は現地で取材を続けてゆく。
日英に広がる輪
共同通信が報道した除幕式についての記事が日英の新たなつながりに結びつく。平野丸の遺族の方が島崎氏にメールを送ってきたのだ。
2018年10月4日、乗組員の孫にあたる女性、ロンドンの日本大使館員、ジェームズさん、地元住民らが出席して、新慰霊碑の除幕式が行われた。
島崎氏は2019年にロンドンでの勤務を終え、東京の共同通信本社に戻るが、その後も取材を止めなかった。1990年代に出た日本の新聞の記事によって、1918年当時に遺体の埋葬に立ち会った人物がいて、数十年にわたって献花をしていたことも分かってきた。
平野丸と沈没
沈没までの平野丸の動向を追ってみると、横浜からリバプールに到着したのが1918年9月であった。翌10月、日本に向けて復路の旅に出る。
当時は戦時中の安全性確保のため、米国の駆逐艦2隻と英国の警備艇数隻による船団の中に入っての航行である。
同月4日午前4時過ぎ、セントジョージ海峡を通過したところで、平野丸はUボートの攻撃を受け、数分で沈没。
島崎氏はどのように平野丸が沈没したのか、どんな人が乗客だったのか、遺族はどうしているのかなど、徹底的に資料を集めて過去と現在を重ねていく。
かつての乗客の一人が作家与謝野晶子だった。彼女の船上での生活の描写やそのほかの資料によって読者は乗客の生活をありありと想像できる。
第1次大戦と平野丸
島崎氏は平野丸撃沈をめぐる状況をつまびらかにしていく。
ナチスドイツはどんな戦略の下でUボートを使っていたのか。
著書によると、「英国海軍は(第1次大戦の)開戦に伴い、北海でドイツの通商路を遮断し、ドイツ向け操船を厳しく臨検、経済封鎖を実施した」。これに対しドイツはUボートを使って海上交通を妨害する作戦に出る。「敵国の非武装の商戦を見つけ次第、攻撃を加え、拿捕し、あるいは撃沈する作戦」である。
ドイツは当初、敵国の船舶に警告をしたうえで攻撃する命令を出していたが、英国側が商船に偽装した重武装船を出すようになったため、1915年2月からは「英国やアイルランド周辺を戦闘水域と宣言」し、Uボートで無警告で攻撃する「無制限潜水艦作戦」を開始したという。こうした作戦の「餌食になった1隻が、平野丸だった」。
平野丸沈没からほぼ1か月後の1918年11月、第1次大戦が終結する。
第1次大戦と日本
そもそも、なぜどのような経緯で日本は第1次大戦に参戦していったのか。当時の日本の政治状況や国際情勢がつづられる箇所も大変興味深い。第1次大戦は、決して地理的に遠い欧州で発生した、日本にはほとんど関係がない戦争ではなかったのである。
最後の章では、英国の戦没者追悼式で参加者が繰り返す「私たちは彼らを忘れない(We will remember them)」が由来する詩「倒れた者のために(For the Fallen)」とその背景が紹介されている。
ウェールズの住民が沈没した平野丸の乗船者を追悼し続けるのはなぜなのか。
平野丸の運命、その歴史的背景、乗船者の横顔をたどりながら、その後に続いた第2次大戦、広島と長崎に投下された原爆の被害、そして今も途切れることがない世界各地で発生する戦争について考えてしまう1冊である。
郷土歴史家ジェームズさんは本の出版から約半年後の昨年9月、死去したが、建設に尽力した新慰霊碑を通して次世代にもウェールズの地元住民と日本とのつながりが続く。
編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2025年1月15日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。