何と一年ぶりの投稿になる。
本稿では、薪ストーブ煙害の実際とは離れ、「いわゆる生活環境被害」に関し筆者個人の見解と姿勢について、確認の意味で述べておきたい。
これは、住環境における各種の「問題」を混同し叫ぶ被害者たちの主張を見るにつけ、彼らとは異なる筆者の見解と姿勢を明確にしておく必要を感じたためである。
社会的責任?
筆者は「いわゆる環境活動家」ではなく、発信力も無い一介の無名な得体の知れない煙害被害者であり、崇高な理念を掲げた意識の高い被害者のように眦高く勇猛果敢に鬨の声をあげたり、他の被害類型や政治・社会不満も包含統合した組織的活動を行う能力も無く、広範囲の環境問題にも実は興味が無かったりする。
いわゆる「最低に意識低すぎる系」とでも言うのであろうか。
筆者は彼らの叫びを包括し独自に「生活環境被害」と呼称しているが、それらの大部分に対しては大変申し訳ないことに関心を持てないので、彼らの活動の手法にも鑑みて現状では関与する意思も無い、言わば冷淡な立場(後述)を取らざるを得ない。
そしてまず第一に自分の事で忙しく充実し手一杯であり、何でもかんでも取り組むべきとは思わない。
筆者は、他のよくわからない個人的社会不満系まで心配りしなければいけない社会的責任者の立場でもないことを明記しておきたい。それは政治家の仕事である。
自分が一番かわいそう?
筆者はXの旧アカウントで各種生活環境被害者との共闘を考えたが、以下のようなこと(要旨要約)を言われたり遠回しに批判されたことがある。
「薪ストーブ使用者はモラルがあるから野焼きとは別、野焼き被害のほうが酷い」
「化学物質過敏症のほうが深刻で、薪ストーブの煙は自然素材なので無害」
「私たちに協力してほしい、でも薪ストーブ被害には協力できない」
という驚愕的なもので、彼らもまた薪ストーブ被害者に対し冷淡な姿勢を見せた。
筆者は非対称な協力関係は承諾できないので、現状では彼らに対し冷淡な立場をとらざるを得ない判断に至っている。
「自分が一番かわいそうだ、お前たち薪ストーブの被害など屁でもない」と言われたように筆者には聞こえた。
筆者は諸問題の解決が望ましいとは考えるが、このような返答を頂くと彼らへの賛意も一気に冷めるというものである。
また、彼らの一部は過激で破壊的思想を持つ左翼系活動家と強い連携をとっていることが後々で判明し、筆者はこれらとは常にかなり離れた立ち位置を保ちたいと考えている。
巻き込み御免、利用されるのも御免である。
筆者の行動目的は単に煙害解決であって政治社会活動ではないことを、ここに明確にしておく。
数はちから?
薪ストーブやその他被害を世に訴求するにあたって「数はちから」と考えるのもまた誤りではない。
しかし相応の厚みのある根拠を持ってこその「数はちから」であり、その「ちから」を纏める有能かつ戦略的思考ができるキーパーソンがいない限り、ただ叫ぶだけでは事態を動かすには至らないと筆者は考える。
「叫ぶ数はちから」に関し留意すべき点をひとつ挙げておきたい。
詳細は知らないが概要として、以下のように理解している。
「子供の遊ぶ声を騒音公害とすべし」との主張を、或る時期に多人数で官庁に送付したが、その後に出た見解は「子供の声は公害にあらず」であり、要求とは正反対の見解を導き出してしまった、という失敗例を見聞している。
「数はちから」の行使方法を誤ると、効果が無いばかりか要求とは逆の結果を招くことさえ起きえる。
血気盛んな言動は程々にし、充分な留意が必要であると敢えて指摘しておきたい。
それ公害?
現状で一般には公害とは呼称されない事象事物に対し、根拠提示も無く一方的に「公害だ」と叫ぶのは「違う」と思う。
公害とは、行政がそれの存在を認め、「公害」或いは「公害の惧れ」として扱われるもので、一般私人が何らの根拠提示も無いままに、感情論のみで何らかの事象を指し独自に「公害」と呼称することには、筆者は違和感を感じる。
科学的根拠による裏付けが無い、若しくは希薄であった場合、それは社会に対し誤情報を流布することになりかねない。
もしそれが公害であると周知をしたいのであれば、むしろ「〇〇に公害認定を」「〇〇を公害にして」のほうが戦術的・心象的には良いと筆者は考えるが、如何であろうか?
もちろん客観的かつ定量化された根拠が必要であることは言うまでもない。
因みに葉山町では以下の通り、薪ストーブに関する記述を「公害カテゴリ」に入れてあることから、筆者は薪ストーブを公害と呼称するし、他の地域の被害者もそれを踏襲して不適切ではないと考える。
公害主張に関し特に申し添えておきたいのは、いわゆる「陰謀論や似非科学」とは距離を置いて展開してゆくことが重要だという点である。
陰謀論や似非科学の多くは根拠を欠き、公害主張者自身がそれを信奉することで「まともな人からの信頼」を失いかねないリスクがあることを、充分に留意すべきであろう。
社会問題の解決には陰謀論や似非科学は不要かつ有害であることを指摘しておく。
指摘する範囲
筆者の関与言及対象は、過去記事で何度も述べている通り、「建築物に設置された薪ストーブが他の住民に定常的に煙害を与えている」「廃棄物焼却が度を越し周辺住民の生活妨害」という事例を論考の主題に限定していることは、最低限の日本語が読める人なら理解できるはずである。
しかし具体的例示は控えるが残念ながらフェイスブックのコメントを見る限り、日本語が読めない方も一定数存在することは残念な限りである。
他の発煙燃焼行為すなわち、「過疎地のぽつんと一軒家で薪ストーブ」「BBQ」「キャンプ場での薪ストーブ・焚火・ファイヤピット」「やむを得ない事情で最小限のOpenburning」「環境保全や慣習として許容された最小限のOpenburning」「寺や墓地の線香」「花火大会」「隣人の喫煙」「どんど焼き」「陶芸品の焼成」「焼き芋大会」などは、周囲への一定の配慮及び延焼事故に関する責任を持って行われる範囲であれば筆者は問題視していないし、そこまでとやかく指弾する積りは全く無い。
また、「どんど焼き」「除夜の鐘」「盆踊り」「祭り」等の楽しい年間イベントを十把一絡げに迷惑系として廃止させようとする向きもあるが、筆者はこれらの「被害定量化も無しに、根拠なきイチャモンによる廃止要求」にも徹底し大反対である。
わずか年に1回の、日本のそれぞれの地域で承継された文化での特別な行事であり、受忍限度を大きく超えるとは言えないだろうと考える。これすら嫌であれば、自らその地を離れるべきではないだろうか。
「水田のカエルの鳴き声がうるさい」と農家に苦情を伝えるような移住者に至っては、もはやお話にならない。都会に戻ればよい。
逆に、その地域の暗黙の了解やルールを無視し薪ストーブを持ち込み、猛煙やチェンソー騒音で周囲に迷惑をかけ、権利を振り回す身勝手極まる勘違い移住者もまた困ったものであることも申し添えておく。
問題提起の手法
何かについて被害が有り迷惑だと指弾するのであれば、煙や騒音は測定機器としては安価な部類の機器で簡単に数値化可能であり、その根拠たる「被害の程度」を主張者自身が本気で責任と費用を以て示す必要が有る。
それをまったく示せないのであれば、第三者から見れば単なる感情論で捨て置け、ということになってしまう。
更に言えば、高飛車な態度で罵倒の言葉を振りかざして行政職員と喧嘩をしても、モンスタークレーマー認定されるだけで問題解決に寄与しないことを付け加えておく。
そして、合法か違法か、処罰するかしないか、それも官吏の専権事項であり、一般民間人にはその権限は無いことを充分に留意しておくべきであろう。
我々民間人は裁判官でも刑務官でもない。行為者に対する何の処罰権限も無いのである。
思い余って私的制裁を試みてはならない。その段階で貴方が罪に問われることになり、被害者が加害者に変貌してしまうことになる。被害者であっても充分にくれぐれも自重されたい。
現在合法な製品や行為を規制または辞めさせるには、「相応のかなり重く明確な根拠」が必須であることは言うまでもない。
筆者はそのために微力ながら自動記録式エアモニタを複数設置し、常時一時間平均値を公開している。
何かを指摘するなら、相応の客観的な定量化根拠を出さねばならない。
これを「立証責任の原則」と称する。
さて、次回稿のテーマは未定である。
編集部より:この記事は青山翠氏のブログ「湘南に、きれいな青空を返して!」2025年1月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「湘南に、きれいな青空を返して!」をご覧ください。