チンパンジー化する日本人?:『平和の遺伝子』で読み直す日本史

池田信夫さんが昨年末に出した新刊『平和の遺伝子』を読んだ。全4章のうち3つは、日本通史の形で書かれているけど、その前に置かれた第1章「暗黙知という文化遺伝子」が、本書ならではの魅力である。

平和の遺伝子 - 白水社
強いリーダーを拒む、日本社会の構造この国はなにを失ったのか?  日本社会の同調圧力について抉り出した池田信夫『「空気」の構造』(白水社)の刊行は二〇一三年のことだった。山本七平の『「空気」の研究』(文

日本人は「平和ボケ」している、とよく言われる。そのボケの理由を「敗戦と平和憲法」に求めるのが、いわゆる右の識者だけど、池田さんは従来からもっと深いところでボケてるんじゃないの? と指摘してきた。今作ではついに、中世・古代といった歴史を突き抜けて、動物行動学のレベルまで「ボケる理由」を遡らせている。

同書の構想については、2022年秋のこの対談でも、ちょっと聞いていた。進化生物学の「自己家畜化」の概念を使うと、長らく日本特殊論の形で語られてきた平和ボケの理由を、普遍的に定義できるのでは、との趣旨だ。

自己家畜化というアイデアが面白いのは、誰か悪辣な「飼い主」(絶対主義天皇制だったり、GHQだったり)がいたために、日本人が牙を抜かれて家畜化するのではないことだ。むしろ他者を攻撃せず、周囲と慣れあったほうが生存の上で有利な環境ゆえに、自ら野生を捨てて互いに「飼い慣らされあう」プロセスが、自然と起きる。

言い換えると「コイツらのせいで」といった陰謀史観抜きで、日本人がなぜここまで「じゃれあい民族」になったのかを、説明できる。WGIPガー的な歴史観の影響力が(世界的にも)広がる中で、いま、そうした視点を持つ意義は大きい。

エマニュエル・トッドと江藤淳|Yonaha Jun
共同通信に依頼されて、昨年11月刊のエマニュエル・トッド『西洋の敗北』を書評しました。1月8日に配信されたので、そろそろ提携する各紙に載り始めるのではと思います。 米国と欧州は自滅した。 日本が強いられる...『西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか』エマニュエル・トッド 大野舞 | 単行本 - 文藝春秋 ...

一方でぼくはむしろ近年、日本人の一部に家畜化を巻き戻し、野生に還りたがる傾向が見られることに注意を促してきた。昨秋の記事で採り上げた、B.ヘア & V.ウッズ『ヒトは〈家畜化〉して進化した』も、もとは池田さんに教えてもらった本だが、考察のヒントになった。

「感じの悪い人」論: 人類は〈家畜〉から野生に戻るのか|Yonaha Jun
このnoteを読むたびに「品位がある・ない」の二択で感想をくれる友人によると、前回の投稿は品位が低めらしい。もっとも同記事は、あくまでSNS上で粗暴な言動を繰り広げる「うおおおお!」な人びとを批判するために模写しているので、その責めを私に負わされても困ってしまう。 しかし、文脈がどうであれ「その瞬間だけ見て嫌だったら...

『平和の遺伝子』には、そうした視点からも読み解けるエピソードが詰まっている。たとえば京大サル学の泰斗だった伊谷純一郎の「規矩」論を引いて、池田さんはこう述べる。

チンパンジーには白目がなく、対面すると優位な猿は相手をにらみつけ、劣位の猿は顔をそむける。類人猿の脳には生まれたときこの序列が刷り込まれるので、顔を向けてにらみつけることが優位を示す

ところが人間の目は白目がはっきりしていて、顔を向けなくても視線がわかる。それは人間の序列が固定されていないためだ。

チンパンジーのように相手をにらみつける行動は、その規矩が共有されている小さな集団の中では有効だが、他の集団と混じると、どちらが優位かわからないので争いが起こる。
(中 略)
人間は言葉で味方を確認するので、大きな集団をつくりやすい。猿のような固定的な序列がなく、だれがボスになるかは人間関係の中で決まるので、言葉で愛情や敵意を見せる。

『平和の遺伝子』57頁
強調を附し、段落を改変

いま、SNSでまともな議論が成立しないのは、言葉でなく「にらみつけ」でしかやり取りしないからだ。「このプロフィールを見ろ!(ドヤァ」「こっちはフォロワー○万人だぞ!(ドヤァ」と、議論の前から序列が固定されており、ボス猿についてゆくように子分が付き従う。

マウンティング」という、本来はサル山の分析などで使う用語が、人間関係に当てはめられるようになって久しい。言葉で議論するのが仕事のはずの、大学教員とかまでチンパンジーしているようでは、まぁそんなものかと諦めざるを得ない。

原義通りの「マウント」の一例。
詳しくはこちらこちら

日本はこれまで、「高文脈社会」の典型だと見なされてきた。つまり、長年のつきあいを通じて「俺とお前の間だから言える」といった形で、親密さの確認を伴いながら、情報がやり取りされる。

従来なら内に秘めて、親しい人にしか明かさなかった属性をプロフィール欄に掲げるSNSでのコミュニケーションは、まったく逆である。そうした「過剰可視化」については、かねて問題を提起してきたものの、まさかそれがチンパンジーへの道=「再野生化」でもあるとは気づかなかった。

何もかもが見えすぎる社会は人を幸せにしない――與那覇潤(評論家)【佐藤優の頂上対決】(3ページ目) | デイリー新潮
透明化や可視化が「善」とされるこの社会。コロナ対策ではエビデンスや数値化といった言葉が声高に叫ばれた。…

こうなると、気になるのは生業やライフスタイルとの関係だ。

一般には「日本人の穏和さ」は、同じ面子で空気を読みあいながら暮らす、稲作社会の産物として位置づけられる。しかし池田さんの言う「平和の遺伝子」は、必ずしも農耕とは関係しない。むしろ定住だけがあって農業は営まなかった、縄文時代がその形成に関わり、統治機構の強大化を忌避する発想はノマド的ですらある。

網野善彦が飛礫に見出した日本人の「最古層」 : 池田信夫 blog
本書は網野善彦のデビュー作だが、おもしろいのは冒頭に彼が書いている飛礫(つぶて)をめぐるエピソードである。彼は中世の文献を渉猟し、おびただしい飛礫についての記録があることを見出す。祭のとき礫を飛ばす習慣があり、それを幕府が禁じると飢饉が起こるという言い伝

進化生物学の知見を織り込んで、リニューアルされた歴史のイメージから、日本の過去・現在・未来は、どう新しく見通せるだろうか。

3度目のゲスト出演となる翼駿馬(ホルダンモリ)さんのシラスチャンネルでは、看板である「モンゴル遊牧民との対照」も踏まえて、じっくり議論したいと思っている。いわば、進化論と文明論を対話させる試みである。

2/16(日)の15:00~、アーカイブ視聴もOKで生配信の予定なので、多くの方にご視聴いただけますなら幸いです!

文明論と進化論で「日本史」を訂正する! ゲスト與那覇潤さん ホルダンモリの「モンゴルの野を駆ける――アジアを巡る歴史と文字」 | シラス
恒例の與那覇潤さんゲスト回です!今回は、 池田信夫著『平和の遺伝子』 杉山正明著『遊牧民から見た世界史』 の2冊を読み、 文明論と進化論をキーワードとして、 停滞している、または衰退していると言われる昨今の日本社会を 覆っている「空気」はどのように齎されたのか、 じっくりと語っていこうと思います。 與那覇潤さんは...

参考記事:

タテ社会の人間関係はいま: 人類学と日本史の対話|Yonaha Jun
教養動画サービス「テンミニッツTV」(10MTV)で、呉座勇一さんとの対談番組の配信が始まりました! 初回のお試し視聴は以下から(今後、毎週木曜に続く回が追加され、全8回予定です)。 誤読された『タテ社会の人間関係』、日本社会の本質に迫る | 與那覇潤 | テンミニッツTV 評論家 與那覇潤/『タテ社会の人...
ホルダンモリさんのシラスチャンネル(1/8)に出ます。|Yonaha Jun
新年の初仕事として、1/8(月祝)の17:00より、ホルダンモリ/翼駿馬さんのシラスチャンネルに出ます(ライブ中継後、半年間はアーカイブあり。番組へのリンクはこちら)。 翼駿馬さんは非常にありがたい『平成史』や『危機のいま古典をよむ』のレビューを書いてくださった方で、ゲンロンカフェのイベント(こちらとか。公開2/29...

(ヘッダーは、集英社オンラインの記事より)


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年2月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。